第6話 偽物は、本物の世界で呼吸できない
第6話 偽物は、本物の世界で呼吸できない
「ねぇ瑛太さん、これ可愛くないですかぁ?」
白鳥萌々香は、鏡の前でくるりと回った。
南青山の高級ブティック。
シャンデリアの光が、白い大理石の床へ反射している。店内には甘いフローラルの香りが漂い、静かなクラシック音楽が流れていた。
萌々香が身につけているのは、今季最新のオートクチュールドレスだった。
胸元は大胆に開き、淡いベージュのチュールには細かなビジューが散りばめられている。値札は軽く七桁を超えていた。
だが。
何かがおかしい。
店員は笑顔を貼りつけている。
けれど、その目だけが笑っていなかった。
瑛太はソファへ深く腰掛けたまま、苛立ったようにネクタイを緩める。
会社は最悪だった。
融資停止。
株価下落。
上場延期。
SNSでは経費流用疑惑まで囁かれ始めている。
だが、今夜だけは失敗できなかった。
今夜のパーティーは、日本財界の重鎮たちが集まる《白金アートチャリティー・ガラ》。
ここで新しいスポンサーを掴めなければ、本格的に終わる。
だからこそ。
瑛太は萌々香を“磨けば使える女”にしようとしていた。
「お前、今日はマジで変なことするなよ」
「わかってますぅ」
萌々香は頬を膨らませた。
「私だってちゃんと勉強してますもん」
「……本当か?」
「ワインとかも覚えました!」
そう言ってスマホを取り出す。
「えっと、赤はお肉で白がお魚で〜……あとシャンパンは乾杯のやつ!」
瑛太は頭を抱えたくなった。
以前なら。
こういう場には麗華がいた。
誰へ挨拶するべきか。
誰が敵で誰が味方か。
どの席に誰を座らせるか。
どのタイミングでワインを変えるか。
全部、麗華が自然に回していた。
自分はただ笑っていればよかった。
だが今は違う。
瑛太自身も、本当は何もわかっていなかった。
◇
白金。
旧華族の邸宅を改装した洋館。
巨大なシャンデリアの下で、上流階級の人間たちが静かに談笑していた。
女たちは上質なシルクを纏い、男たちは仕立ての良いタキシードを着ている。
ブランドロゴを主張する人間は一人もいない。
香水すら控えめだった。
そこへ、萌々香は現れた。
「わぁ〜、すごぉい……!」
場違いなほど大きな声。
一瞬、空気が止まる。
何人かが視線を向けた。
萌々香は気づかない。
嬉しそうにドレスの裾を揺らしている。
「瑛太さん、見てくださいぃ! みんなこっち見てる!」
……違う。
瑛太は胃が痛くなった。
あれは“注目”じゃない。
“観察”だ。
値踏み。
そして失望。
「静かにしろ」
「えぇ〜?」
その時だった。
初老の紳士が近づいてくる。
国内最大手銀行の会長。
以前、麗華が繋いだ相手だ。
瑛太は慌てて笑顔を作る。
「お久しぶりです!」
だが会長の視線は、萌々香を見た瞬間、ほんの僅かに冷えた。
「……そちらの方は?」
「秘書です!」
萌々香が先に答えた。
しかも勢いよく名刺を差し出す。
両手ではなく片手で。
会長の眉が動く。
まずい。
瑛太が青ざめる。
上流階級では、名刺交換一つにも礼儀がある。
だが萌々香は知らない。
「白鳥萌々香っていいますぅ! いつも瑛太さんのお世話しててぇ」
その“お世話”という言い方が致命的だった。
周囲の空気が変わる。
女たちが静かに目を伏せる。
男たちが苦笑を隠す。
愛人。
そう理解された。
萌々香は気づかない。
「今日のドレスぅ、パリの限定なんですよぉ!」
会長は曖昧に微笑んだ。
「……そうですか」
そのまま去っていく。
完全に距離を置く歩き方だった。
瑛太の背中に冷や汗が流れる。
「ちょっとお前!」
「え?」
「余計なこと喋るなって言っただろ!」
萌々香がムッとする。
「なんなんですかぁ? せっかく盛り上げたのに」
「盛り下げてんだよ!」
声が大きくなる。
周囲がちらりとこちらを見る。
瑛太は慌てて黙った。
その時だった。
「……あら」
静かな女の声。
空気が変わる。
振り返った瞬間、萌々香の顔から血の気が引いた。
神代麗華。
黒のマーメイドドレス姿だった。
首筋には一粒ダイヤ。
装飾はそれだけ。
なのに、誰よりも目を引く。
背筋。
視線。
歩き方。
その全てが、別格だった。
まるでこの空間そのものが、彼女のために存在しているようだった。
麗華の隣には、アレクが立っている。
二人が並ぶだけで絵になる。
周囲のVIPたちが自然に道を開けていく。
「ごきげんよう」
麗華は穏やかに微笑んだ。
その笑顔が、逆に萌々香を惨めにする。
萌々香は慌てて胸を張った。
「わ、私もこのブランド着てるんですぅ!」
麗華の視線が、ゆっくり萌々香をなぞる。
ドレス。
バッグ。
アクセサリー。
香水。
そして立ち居振る舞い。
全部を一瞬で見抜く目だった。
「……そう」
たったそれだけ。
なのに。
萌々香は、自分が急に安っぽくなった気がした。
周囲の女たちが麗華を見つめる。
羨望。
尊敬。
憧れ。
それは萌々香へ向けられる視線とは、まるで違った。
萌々香は初めて理解する。
ブランドを着れば、“本物”になれると思っていた。
高いバッグを持てば。
高級ドレスを着れば。
選ばれる女になれると思っていた。
けれど違った。
本物は、服に着られない。
服を、自分の一部にしてしまう。
その差が、残酷なほど見えてしまう。
麗華は静かにワイングラスを持ち上げた。
赤い液体が、シャンデリアの光を受けて揺れる。
「白鳥さん」
「……な、なんですか」
麗華は穏やかに微笑んだ。
「シルクは繊細ですの」
低く、美しい声。
「無理に背伸びをすると、すぐ破れてしまいますわよ」
その瞬間だった。
周囲の何人かが、耐えきれず小さく笑った。
萌々香の顔が真っ赤になる。
瑛太は何も言えなかった。
なぜなら。
今この場で、一番惨めなのは——
自分だと気づいてしまったからだ。




