第5話 女王は、表舞台へ戻る
第5話 女王は、表舞台へ戻る
朝の光が、巨大なガラス窓から白く差し込んでいた。
南麻布。
《Maison de L'Aube Japan》東京本社。
磨き抜かれた大理石の床に、ヒールの音が静かに響く。
カツ、カツ、と。
すれ違う社員たちが、思わず足を止めた。
「あの人……」
「新しいCFO……?」
「神代麗華……?」
視線が集まる。
だが麗華は一度も周囲を見なかった。
ローズピンクのスリーピーススーツ。
無駄のないシルエット。
身体の線を強調しすぎない、完璧な仕立て。
胸元には小さなダイヤモンドのブローチが一つ。
派手ではない。
だが、圧倒的だった。
安物のブランドロゴなど必要ない。
本物の女は、立っているだけで空気を変える。
受付の女性が緊張したように頭を下げる。
「お、おはようございます」
「おはようございます」
麗華は微笑んだ。
柔らかな声だった。
その瞬間、受付の女性は頬を赤くする。
美しい。
だがそれだけではない。
麗華には、人を安心させる静けさがあった。
そのまま専用エレベーターへ向かう。
扉が開いた瞬間、低い声が響いた。
「時間ぴったりだ」
アレク・ローラン。
黒のスーツ姿で立っていた。
ネクタイすら芸術作品のように整っている。
灰色の瞳が麗華を見る。
「遅刻する女は嫌いだ」
「奇遇ですわ。わたくしもです」
アレクが笑った。
「君は本当に面白い」
エレベーターが静かに上昇していく。
二人きりの空間。
微かに香るベルガモットとシダーウッド。
アレクの香水だった。
落ち着く香りだ、と麗華は思う。
「緊張しているか?」
「いいえ」
即答だった。
アレクは目を細める。
「普通の女なら、世界最高峰メゾンの役員就任初日は震える」
「わたくし、“普通の女”ではありませんもの」
「知っている」
その言葉に、なぜか胸が少し熱くなった。
認められることに慣れていなかった。
瑛太はいつも、「支える側」であることを求めた。
目立つな。
出しゃばるな。
俺を立てろ。
そうやって麗華の才能を、“妻”という檻へ押し込めていた。
だがアレクは違う。
最初から麗華を、一人の能力ある人間として見ている。
エレベーターが最上階へ到着する。
扉が開いた瞬間、拍手が響いた。
役員フロア。
世界各国から集められた幹部たちが、一斉に麗華を見ていた。
「Welcome, Reika.」
「Nice to meet you.」
「We’ve heard a lot about you.」
英語、フランス語、日本語。
様々な声が飛び交う。
麗華は静かに会釈した。
「神代麗華です。よろしくお願いいたします」
その姿は凛としていた。
堂々と。
誰の隣でもなく、自分の足で立っている。
アレクが周囲を見渡す。
「彼女が新しいCFOだ」
低い声がフロアに響く。
「そして、我々の新しい象徴でもある」
ざわめきが走る。
アレクは続けた。
「L'Aubeは“女性を飾るブランド”ではない」
灰色の瞳が麗華を捉える。
「女性に、戦う力を与えるブランドだ」
その瞬間だった。
フロアの空気が変わる。
誰もが理解した。
この女は、ただの役員ではない。
新しい時代の顔だ。
◇
一週間後。
麗華の写真が世界中へ拡散されていた。
《知性を纏う女》
《戦うCEOたちの新アイコン》
《最もエレガントな元金融アナリスト》
SNSは騒然としていた。
ローズピンクのスーツ姿で会議へ向かう写真。
黒のロングコートを翻して歩く動画。
白いシャツ一枚で財務資料を読む横顔。
その全てが、“強い女”の象徴として拡散される。
特に女性たちの反応が凄まじかった。
『こういう女になりたい』
『媚びてないのに美しい』
『知性が色気になってる』
《Maison de L'Aube》の売上は爆発的に伸びた。
「麗華ライン」と呼ばれる新シリーズは、発売初日に完売。
働く女性たちがこぞって購入した。
ロゴを誇示するブランドではない。
“自分の価値を知っている女”のための服。
それが、今の時代に刺さった。
◇
その頃。
《Eternal Link》本社。
「……は?」
氷室瑛太は、モニター画面を見て固まっていた。
映し出されているのは、経済ニュース。
《Maison de L'Aube新CFO・神代麗華氏、世界的話題に》
そして、麗華の姿。
ローズピンクのスーツ。
凛とした横顔。
堂々と記者たちへ囲まれている。
瑛太の喉が鳴る。
「なんだよ……これ」
隣で萌々香が不機嫌そうに口を尖らせた。
「なんかムカつきますぅ。あの女、調子乗ってません?」
その声が、やけに耳障りだった。
瑛太は画面から目を離せない。
そこに映る麗華は、自分の知らない女だった。
違う。
本当は知っていた。
ただ、自分が見ようとしなかっただけだ。
昔、麗華は深夜まで数字を分析していた。
投資家との会話も、海外情勢も、金融市場も、全部理解していた。
だが瑛太は、それを“妻の手伝い”だと思っていた。
まさか。
あの女が、自分より遥か上の世界で戦える人間だったなんて。
「社長ぉ?」
萌々香が腕へ触れる。
甘い香水の匂い。
その瞬間、瑛太は強烈な違和感を覚えた。
安っぽい。
服も。
声も。
仕草も。
全部。
以前は可愛いと思っていたのに。
今はただ、軽薄にしか見えない。
モニターの中では、麗華が英語でインタビューへ答えていた。
流暢な発音。
冷静な分析。
世界の記者たちが真剣な顔で聞き入っている。
その横には、アレクが立っていた。
まるで対等なパートナーのように。
瑛太の胸がざわつく。
知らない感情だった。
怒り。
焦燥。
そして——
喪失感。
自分は、とんでもないものを手放したのではないか。
その現実だけが、遅すぎるほど鮮明に迫ってきていた。




