第4話 お前の会社を作ったのは誰だ
第4話 お前の会社を作ったのは誰だ
「これで、正式に終了です」
区役所前の並木道には、春の終わりを告げる雨が降っていた。
灰色の空。
濡れたアスファルト。
白いシャツに滲む湿った空気。
神代麗華は、黒のジャケットの襟元を軽く整えながら、淡々とそう言った。
その横で、氷室瑛太は呆然と立ち尽くしていた。
提出された離婚届。
受理済みの赤い印。
たった紙一枚。
それだけで、三年間の結婚は終わった。
「……本当に出したのか」
掠れた声だった。
麗華は振り返らない。
「あなたが署名したのでしょう?」
「いや、でも……」
瑛太は混乱していた。
今でも実感がなかった。
麗華は最後には折れると思っていた。
怒っても、泣いても、結局は戻ってくると。
なのに。
麗華は一度も振り返らない。
「荷物は本日中に運び出します」
「待てよ」
「何か」
「……お前、本当に後悔しねぇの?」
その言葉に、麗華は初めて足を止めた。
雨粒が黒髪を濡らす。
けれど振り返った顔は、驚くほど穏やかだった。
「後悔?」
「だって、お前……今さら一人になってどうすんだよ」
瑛太は半ば本気でそう言った。
麗華は実家が太いとはいえ、ずっと「妻」として生きてきた女だ。
今さら社会復帰などできるわけがない。
そう思っていた。
だが次の瞬間、麗華は静かに笑った。
それは初めて見る笑みだった。
哀れなものを見るような。
「……あなた、本当に何も見えていなかったのね」
「は?」
「失礼します」
黒塗りの車が静かに横付けされる。
運転席から降りてきた男が、恭しく頭を下げた。
「神代様、お荷物はすべて搬出済みです」
「ありがとう」
瑛太は目を見開く。
見覚えのある男だった。
国内最大手投資ファンド、《グランヴェル・キャピタル》の専属秘書。
なぜそんな男が麗華に頭を下げているのか理解できない。
麗華は車へ乗り込む直前、最後に瑛太を見た。
「ごきげんよう、氷室社長」
その呼び方には、もう何の感情もなかった。
妻ではなく。
ただの他人。
車が静かに走り去る。
雨の中にテールランプが消えていく。
その時初めて、瑛太は妙な胸騒ぎを覚えた。
◇
「社長、大変です!」
翌朝。
《Eternal Link》本社オフィス。
ガラス張りの役員室へ、経理部長が血相を変えて飛び込んできた。
瑛太は苛立ったように顔を上げる。
「何だよ朝から」
「三和中央銀行が……融資案件を白紙に」
「は?」
一瞬、意味がわからなかった。
「いや、待て。来月契約だったろ?」
「それが突然、“総合的判断”で……」
瑛太は舌打ちした。
「クソ。まあいい。他あたれ」
だが、それは始まりに過ぎなかった。
十分後。
営業部長が飛び込んでくる。
「社長! 東都メディアが共同事業から撤退すると!」
「……は?」
さらに。
「顧問弁護士事務所から契約終了通知が!」
「IPO準備チームが辞退を!」
「ベンチャー協会の会食、全キャンセルです!」
次々に鳴る電話。
飛び交う怒声。
オフィスの空気が急速に変わっていく。
つい昨日まで、自分に媚びていた人間たちが、一斉に距離を取り始めていた。
瑛太は顔を引き攣らせた。
「なんだよこれ……」
その時だった。
秘書席から、甘えた声が響く。
「社長ぉ〜、この前のバッグなんですけどぉ」
白鳥萌々香だった。
呑気にスマホを見ながら近づいてくる。
「限定カラー欲しいんですけど〜」
瑛太は振り返った。
その瞬間、何かが切れた。
「今それどころじゃねぇだろ!!」
怒鳴り声がオフィス中へ響く。
萌々香が目を丸くした。
「えっ……」
「会社ヤバいんだよ! 空気読めよ!」
「な、なんで私に怒るんですかぁ……?」
涙声になる萌々香。
周囲の社員たちは視線を逸らした。
その空気に、瑛太はさらに苛立つ。
今までなら。
麗華がいた。
取引先へ即座に連絡を入れ、銀行との調整をし、弁護士を動かし、投資家を宥めた。
どんなトラブルも、麗華が静かに片付けていた。
だが今はいない。
誰も動かない。
誰も判断しない。
オフィスが、まるで沈みかけた船のようだった。
「社長」
若い社員が恐る恐る口を開く。
「……神代さんは、もう戻られないんですか」
瑛太は言葉に詰まった。
戻る?
当然のようにそう思っていた。
数日もすれば冷静になる。
そうしたらまた以前みたいに。
だが。
脳裏に浮かぶ。
雨の中で笑った麗華。
『あなた、本当に何も見えていなかったのね』
冷たい声。
そして今、目の前で崩れていく会社。
その時だった。
役員室の電話が鳴る。
瑛太は乱暴に取った。
「もしもし!」
『……氷室社長』
低い男の声。
三和中央銀行の専務だった。
瑛太は慌てて姿勢を正す。
「せ、専務! あの件ですが——」
『神代さんと離婚されたそうですね』
空気が凍る。
「……え?」
『残念です』
その一言で、全てを理解した。
いや。
理解させられた。
融資。
取引。
信用。
上場。
あれは全部、自分の力ではなかった。
神代麗華という存在に、人が金を預けていたのだ。
瑛太の喉が鳴る。
『神代さんがいたから、我々は貴方に投資していた』
電話越しの声は冷たかった。
『失礼ですが、社長。貴方個人にそこまでの価値はありません』
通話が切れる。
役員室が静まり返る。
瑛太は動けなかった。
その時、ガラス窓へ自分の姿が映る。
高級スーツ。
高級時計。
成功者の顔。
だがその中身は、空っぽだった。
麗華がいなくなった瞬間、全部崩れた。
その現実だけが、残酷なほど鮮明だった。




