第3話 数字は嘘をつかない
第3話 数字は嘘をつかない
「お前、昨日どういうつもりだったんだ」
朝一番。
氷室瑛太は帰宅するなり、リビングの扉を乱暴に開けた。
低く曇った声が、静かな部屋へ叩きつけられる。
窓の外では雨が降っていた。白金の街路樹が濡れ、灰色の空がガラス越しに滲んでいる。部屋にはコーヒーの香りが漂っていたが、その温度だけが妙に遠かった。
麗華はダイニングテーブルで書類を読んでいた。
黒縁の眼鏡。
白いシャツ。
髪は一つにまとめられている。
昨夜の漆黒のドレス姿とは別人のようだった。
だが瑛太は、その姿を見た瞬間になぜか落ち着かなかった。
静かすぎる。
怒鳴り返しもしない。
泣きもしない。
まるで、自分などもうどうでもいい人間を見る目だった。
「聞いてるのか、麗華」
「ええ」
麗華は書類から目を上げる。
「どうかしましたか」
「どうかしましたか、じゃねぇよ!」
瑛太はネクタイを乱暴に緩めた。
「スポンサー連中が、お前のことばっか話してたんだぞ! 誰も俺の話聞いてなかった!」
「そう」
「そう、じゃないだろ!」
麗華は静かにコーヒーカップを置いた。
細い指先。
白く整った爪。
その何気ない動作すら、妙に洗練されている。
「わたくし、あなたに“派手なことはするな”と言われましたので」
「十分派手だっただろうが!」
「黒いドレスでしたわ」
「そういう意味じゃねぇ!」
瑛太は苛立ったように頭を掻いた。
「……お前、最近おかしいぞ」
その言葉に、麗華はほんの少しだけ笑った。
「おかしいのは、どちらでしょう」
「は?」
「わたくしはずっと、あなたの望む妻でいました」
穏やかな声だった。
だがその静けさが、逆に瑛太を苛立たせる。
「家を守り、実家との付き合いを管理し、投資家への挨拶を行い、会食を調整し、危機管理をし、あなたの失言をフォローする」
麗華はゆっくりと言葉を重ねた。
「けれどあなたは、一度でもわたくしを妻として扱ったかしら」
「……またその話か」
「また、ではありません」
麗華はまっすぐ瑛太を見た。
「ずっと続いていた話です」
その視線に、瑛太は一瞬だけ言葉を失った。
昔、麗華の目はもっと柔らかかった。
自分を見る時、ちゃんと熱があった。
だが今は違う。
冷たい。
まるで数字を見る目だ。
損益を測るような。
値踏みするような。
「……だったら何だよ」
瑛太は吐き捨てるように言った。
「そんなに不満なら、離婚でもすれば?」
その瞬間だった。
部屋が静まり返る。
雨音だけが遠くに響く。
麗華は黙ったまま、数秒、瑛太を見つめていた。
瑛太はなぜか息苦しくなる。
いつもなら。
「そんなつもりじゃないでしょう?」
と困ったように笑った。
あるいは泣いた。
だが今日は違った。
麗華は静かに立ち上がる。
そしてテーブルの端から、一つの封筒を取り出した。
白い封筒。
そこから書類を滑らせる。
「……え?」
瑛太の喉が鳴った。
離婚届だった。
記入済み。
神代麗華の署名も、捺印もある。
「な……」
瑛太は思わず笑った。
乾いた笑いだった。
「脅しか?」
「いいえ」
「お前が? 本気で?」
「ええ」
麗華はあまりにも静かだった。
「喜んで、お受けいたしますわ」
瑛太の背筋に冷たいものが走る。
おかしい。
こんなはずじゃなかった。
少し脅せば、いつも通り引き下がると思っていた。
麗華は自分から離れない。
絶対に。
そう思っていた。
「……ふざけんなよ」
「ふざけているのは、あなたでしょう」
麗華はもう一つ、黒いファイルを取り出した。
厚みのある資料。
「こちらもお渡しします」
「何だよ、それ」
「あなたの会社の経費利用明細です」
空気が変わった。
瑛太の顔から血の気が引く。
麗華は淡々とファイルを開いた。
「昨年十二月。パリ出張名目で計上された五百八十万円」
ページをめくる。
「実際には白鳥萌々香さんとの旅行」
「っ……」
「こちらは三月の高級ジュエリー購入履歴。経費処理されていますが、受領者は白鳥萌々香さん」
「待て……」
「バーキン。カルティエ。海外ホテル。プライベートジェット」
紙をめくる音だけが静かに響く。
「全て会社経費です」
瑛太の喉が乾く。
「な、なんで……」
「知らないとでも?」
麗華は静かに笑った。
その笑みを見て、瑛太は初めて理解した。
自分は勘違いしていた。
麗華は“金持ちの妻”ではない。
元外資系金融のトップアナリスト。
企業買収と財務精査を専門としていた女。
数字の中から、不正を嗅ぎ分けるプロ。
「お前……調べてたのか」
「いいえ」
麗華は首を横に振る。
「見えていただけです」
雨が強くなる。
窓ガラスを叩く音。
瑛太は額に汗を滲ませた。
「これを外に出したら……会社が……」
「ええ」
「お前、わかってんのか!?」
「もちろん」
麗華はゆっくりと眼鏡を外した。
冷たい美貌が露わになる。
「だからこそ、まだ誰にも渡していません」
「……っ」
「ですが、あなたが今後もわたくしを侮辱し続けるのであれば、話は別です」
瑛太は言葉を失った。
怖い。
初めてそう思った。
麗華が。
今まで、自分の後ろで静かに笑っていた女が。
こんなにも恐ろしい存在だったなんて。
「瑛太さん」
麗華は穏やかに言った。
「あなた、勘違いしていたのです」
「……何を」
「わたくしは、あなたに守られていたわけではありません」
その声は静かだった。
けれど刃のようだった。
「わたくしが、あなたを守っていたのです」
瑛太の呼吸が止まる。
麗華は離婚届をテーブルへ置いた。
「署名を」
「……麗華」
「今なら、まだ綺麗に終われますわ」
瑛太は震える指で書類を見た。
窓の外では、灰色の雨が東京を濡らしている。
その時初めて、瑛太は理解した。
自分が戦っていた相手は、ただの妻ではない。
数字で企業を解体し、人を破滅へ導ける女だったのだと。




