第2話 漆黒のドレスは喪服だった
第2話 漆黒のドレスは喪服だった
「だから、今日は余計なことするなって言ってるだろ」
ネクタイを締めながら、氷室瑛太は苛立った声を投げた。
鏡越しにこちらを見る目には、夫婦らしい温度がまるでない。ただ、面倒な取引先でも相手にしているような冷たさだけがあった。
白金の高層マンション最上階。大理石の床には朝の光が淡く落ち、広いリビングにはコーヒーの香りが漂っている。だが、その空間だけ妙に温度が低かった。
麗華はソファに腰掛けたまま、静かに紅茶を口に含んだ。
アールグレイの香りが鼻に抜ける。
けれど味はしない。
「余計なこと、とは?」
「わかるだろ。今日は会社の設立五周年パーティーなんだよ。スポンサーも来るし、メディアも入る。お前、変に目立つなよ」
「わたくしは妻として出席するだけですわ」
「だからそれが問題なんだって」
瑛太は舌打ちした。
「お前さ、存在感強すぎるんだよ」
その言葉に、麗華はほんの少しだけ瞬きをした。
存在感が強い。
昔、瑛太は違うことを言っていた。
『麗華が隣にいると安心する』
『お前なら絶対に俺を成功させてくれる』
『俺にはお前が必要なんだ』
けれど今の瑛太にとって、麗華は「便利すぎる女」でしかない。
優秀で、冷静で、空気を読み、失敗を尻拭いしてくれる存在。
だからこそ鬱陶しいのだ。
自分の薄っぺらさが透けて見えるから。
瑛太はジャケットを羽織りながら続けた。
「萌々香も来るから」
やはり、と思った。
「秘書がですか?」
「秘書“も”だよ。運営側として必要なんだって」
「そう」
「変な空気にするなよ。お前、大人なんだから」
麗華はカップを置いた。
硬質な音が響く。
「あなた」
「何」
「わたくし、いつからあなたの妻ではなく、“空気”になったのかしら」
瑛太の顔が僅かに歪んだ。
だがすぐに苛立ちに変わる。
「は? なんだよ急に」
「妻として隣に立つより、秘書を優先するのでしょう?」
「またそうやって面倒くさい言い方する」
「事実ですわ」
「萌々香は仕事なんだよ!」
声が大きくなる。
麗華は静かに瑛太を見上げた。
その瞬間、瑛太はなぜか言葉に詰まった。
麗華の目が、あまりにも静かだったからだ。
怒っていない。
泣いてもいない。
失望すら超えてしまったような、凪いだ目。
それが妙に落ち着かなかった。
「……とにかく、今日は地味にしてろ。黒とか紺とかでいいから」
「承知しました」
その返事に、瑛太は露骨に安堵した。
「わかればいいんだよ」
そう言って部屋を出ていく。
玄関の扉が閉まったあと、麗華はしばらく動かなかった。
静かな部屋。
遠くで車の走る音。
テーブルの上には、昨夜瑛太が投げ出したままの時計が転がっている。
萌々香から贈られたものだ。
裏面には、小さく刻印があった。
“Eita ♡ Momoka”
麗華はそれを見ても、もう胸は痛まなかった。
代わりに浮かぶのは、昨夜出会った男の言葉。
『そのドレスは、戦う女のための服です』
麗華はゆっくり立ち上がった。
そして、寝室の奥に置かれた箱へ視線を向ける。
黒い箱。
《Maison de L'Aube》
世界最高峰メゾンの刻印。
昨夜、店を出る際にアレクが渡してきたものだった。
『もし貴女が、本当に終わらせる覚悟を決めたなら』
『これを』
麗華は静かに箱を開けた。
息を呑む。
そこにあったのは、漆黒のドレスだった。
シルクの艶は夜そのもの。
背中は大胆に開き、腰から脚へ流れるラインは鋭く美しい。
装飾はない。
だが圧倒的だった。
一切の媚びがない。
まるで、誇りそのものを形にしたようなドレス。
麗華はそっと布地へ触れた。
冷たい。
だが不思議と指先が震えた。
これは喪服だ。
愛の終わりを弔うための。
◇
夜。
六本木グランドタワー最上階。
《Eternal Link 五周年記念パーティー》の文字が巨大スクリーンに映し出され、シャンデリアの光が会場中へ降り注いでいた。
政財界の人間たち。
投資家。
芸能人。
モデル。
無数の笑い声と香水が入り混じる。
その中央で、氷室瑛太は上機嫌だった。
「いやー、本当に皆さんのおかげで」
グラスを掲げる瑛太の隣には、白鳥萌々香がぴったり寄り添っている。
淡いピンクのシフォンドレス。胸元には大きなフリル。露骨なブランドロゴ入りのバッグ。
甘ったるい香水の匂いが周囲に漂っていた。
「社長ぉ、今日すっごく素敵ですぅ」
萌々香が腕に絡みつく。
瑛太は満更でもなさそうに笑った。
「おいおい、離れろって」
「えぇ〜? 奥様まだ来てないじゃないですかぁ」
周囲の男たちが苦笑する。
女たちは視線を逸らした。
下品。
誰も口にはしない。
だが空気が語っていた。
その時だった。
エレベーターの扉が開く。
空気が変わった。
ざわめきが止む。
ヒールの音だけが、静かに響く。
カツ、カツ、と。
瑛太が振り返る。
そして、息を呑んだ。
黒だった。
漆黒。
夜を切り取ったようなドレス。
背中は大胆に開き、白い肌が滑らかに覗く。耳元ではダイヤモンドが冷たく光り、長い黒髪が艶やかに揺れる。
神代麗華。
その姿は、美しいを通り越していた。
凄絶だった。
誰よりも静かで、誰よりも強い。
会場中の視線が吸い寄せられる。
男たちは言葉を失い、女たちは息を呑む。
萌々香だけが状況を理解できず、間抜けな声を漏らした。
「え……」
その瞬間だった。
自分のドレスが、急に安っぽく感じた。
ピンクのフリル。
過剰な露出。
ブランドロゴ。
まるで夜の店の安い衣装みたいだった。
並んだ瞬間、格が違うとわかってしまう。
萌々香の顔が引き攣る。
瑛太は呆然と麗華を見つめた。
「……お前」
麗華は微笑む。
それは妻の笑顔ではない。
終わりを告げる女の顔だった。
「ごきげんよう、瑛太さん」
低く、美しい声。
そして麗華は会場を見渡し、静かに言った。
「本日は、主人が大変お世話になっております」
その瞬間、空気が完全に麗華のものになった。




