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第1話 あなたは、いつも私を最後にする

第1話 あなたは、いつも私を最後にする


グラスの中で、淡い黄金色のシャンパンが静かに泡を立てていた。


東京タワーを望む三十九階。白金の会員制フレンチ《ル・シエル・ブラン》は、夜景までも計算された宝石箱のようだった。磨き上げられた銀器。白薔薇の香り。低く流れるピアノ。窓の向こうでは、雨上がりの東京が濡れた光を滲ませている。


神代麗華は、背筋を伸ばしたまま時計を見た。


二十一時十二分。


予約は二十時だった。


テーブルの向かいは、まだ空席のまま。


担当のギャルソンが、気遣うように微笑む。


「奥様、お飲み物をもう一杯お持ちいたしましょうか」


「ありがとう。でも結構ですわ」


麗華は微笑み返した。


完璧な角度で。


崩れない声で。


昔からそう教え込まれてきた。神代の娘は、人前で感情を見せてはならないと。


しかし、テーブルクロスの下で握った指先だけが冷えていた。


スマートフォンが震えたのは、その時だった。


画面に表示された名前を見ても、胸はもう高鳴らない。


氷室瑛太。


夫の名前。


麗華は静かに通話を取った。


「もしもし」


背後で騒がしい笑い声がした。音楽。グラスのぶつかる音。女の甘ったるい声。


『あー、悪い。まだ店?』


「ええ。あなたを待っています」


数秒の沈黙。


それから瑛太は、面倒そうに息を吐いた。


『萌々香がさ、泣いてて』


麗華は何も言わなかった。


『なんか取引先にキツいこと言われたみたいで。かなりメンタル来てるっぽいんだよね』


「……そう」


『今日はそっち行けないわ。悪い』


軽い声音だった。


本当に悪いと思っている人間の声ではない。


麗華は窓の外へ視線を向けた。濡れたガラスに、黒いドレス姿の自分が映る。


結婚記念日だった。


三年目の。


だが瑛太は、おそらく覚えてすらいない。


『麗華?』


「何かしら」


『怒ってる?』


その問いに、麗華は少しだけ笑った。


怒っている。


そんな単純な感情は、もうとっくに通り過ぎていた。


「いいえ」


『だよな。お前そういうの理解あるし』


理解。


またその言葉。


父の手術の日もそうだった。


「萌々香が熱を出した」


流産後の通院の日も。


「萌々香が仕事でミスした」


母の法要の日も。


「萌々香がひとりで帰れない」


全部。


全部、あの女が可哀想だから。


全部、麗華が我慢すれば済む話だった。


『埋め合わせするからさ』


「いつ?」


『え?』


「あなた、今まで一度でも埋め合わせをしてくださった?」


沈黙。


向こう側で、女の笑い声が近づく。


『瑛太さぁん、まだぁ?』


舌に絡みつくような甘え声。


麗華はゆっくり目を閉じた。


香水の残り香まで想像できる。安っぽく甘い、バニラ系の香り。


瑛太は慌てたように声を潜めた。


『あー、じゃあ切るな。また連絡する』


通話が切れた。


あまりにもあっさりと。


麗華はしばらく、その暗くなった画面を見つめていた。


担当のギャルソンが静かに近づく。


「……奥様、お料理をお下げいたしましょうか」


テーブルの上では、仔羊のロティからもう湯気は消えていた。


トリュフソースに薄い膜が張っている。


麗華は小さく首を振った。


「いいえ。いただきます」


ナイフを入れる。


冷えて硬くなった肉は、まるで今の結婚そのもののようだった。


噛んでも味がしない。


けれど、麗華は綺麗に食べた。


誰にも惨めだと思われないように。


神代の娘として。


氷室瑛太の妻として。


完璧に。


食後のコーヒーが運ばれてくる頃には、店内の客も減っていた。


窓の外では、雨がまた降り始めている。


その時だった。


「……そのドレス、とても美しい」


低く滑らかな男の声。


顔を上げると、長身の外国人男性が立っていた。


歳は三十五前後だろうか。黒のチェスターコートを羽織り、灰色の瞳が静かに麗華を見下ろしている。


不思議な存在感だった。


派手ではない。


だが、一瞬で空気を変える類の男。


ギャルソンが緊張したように頭を下げる。


「アレクサンドル様」


麗華は相手を見た。


男はわずかに微笑む。


「失礼。盗み聞きするつもりはなかったのですが、あまりにも貴女が美しかったので」


随分率直な男だと思った。


だが不快ではない。


「ナンパでしたら、お断りいたしますわ」


「それは残念だ」


男は笑った。


その笑みは、不思議と下品さがなかった。


「ですが、ひとつだけ訂正を」


「何をかしら」


「そのドレスは、“待つ女”のための服ではありません」


麗華は息を止めた。


黒いシルクのドレス。


瑛太が選んだものではない。


自分で選んだ、自分のための一着。


男は静かに続けた。


「戦う女のための服です」


その瞬間だった。


胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。


いや。


違う。


崩れたのではない。


長い間、押し込めていたものが、ようやく目を覚ましたのだ。


麗華はゆっくりとグラスを置いた。


カシャン、と硬質な音が響く。


そして、静かに微笑んだ。


「……そう」


その笑みは、今までの“妻”の笑顔ではなかった。


「でしたら、もう終わりですわね」


男が目を細める。


麗華は窓の向こうの東京を見つめた。


滲むネオン。


雨。


無数の光。


その全てが、まるで新しい世界の始まりのように見えた。


瑛太は知らない。


自分が今、何を失ったのか。


本当に大切なものを後回しにし続けた結果、どれほど取り返しのつかない愚かさを犯したのか。


けれど、もう遅い。


麗華は立ち上がった。


漆黒のドレスが、夜の光を滑る。


「わたくしを後回しにする男など――こちらから、お断りですわ」



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