12 前例がなければ
公爵領都にあるギルド機構事務所から、あらゆる依頼を取り仕切るギルドマスターがやってきたのは夕食前、夕方のことだった。
「いや、しかしこれは……何分前例がないもので……」
前例がない。
無能で頑迷な『善』を貴ぶ愚物どもが好んで使う言葉だ。
「前例が無ければ何だ。貴公には己が第一例になろうという覚悟も気概もない、ということだな。ならばそのギルドマスターの肩書など捨てて、どこか田舎で隠遁でもしたらどうだ。ちょうど大雨と土砂崩れで復興途上の村がある。人手はいくらあってもいいだろう。何なら村長を紹介してやろうか」
「い、いえ、そうではないのです。そうではないのですが」
「なら何だ」
建設ギルドのマスターはこの寒い中額に脂汗を浮かべながら、指先を細かく震わせている。なかなかに器用な男だ。
「このキロ・メトル法という規格自体、他の都市では見たことも聞いたこともありませんでしたので」
「それはそうです。このキロ・メトル法という規格は私の息子、ダニエルと類まれな職人キロ・メトルとの共同で開発したこの公爵領の規格。今後はダンストン公爵領においては長さと重さの基準は全てこのキロ・メトル法を採用します」
母上の言葉はやはり私とは重さと説得力が違う。
ぐぅ、という変な声を上げてギルドマスターは黙り込み、公共工事の要求書を広げ直す。
「それでは、王の玉体をもととする神聖なるヤンド・ボンド法は……」
「まぁ、畏れ多くも麗しきインダス王国の建国王、ネメス王より拝領した宝剣をもとにしたこのキロ・メトル法を貶めるつもりなのですか?」
「と、とんでもない! そそそそのようなことは断じて!」
「我が公爵家は建国の功臣、イリアス・ダンストンを始祖に持つ名門。イリアス様が建国王ネメス王より拝領した宝剣、『グロム』の権威がヤンド・ボンド法と比較して足元にも及ばぬと、そのような不敬なことを仰るおつもりではないでしょう?」
母上の追求は相変わらず容赦がない。そうでなくては、公爵家を守ることなど出来はすまい。
「そのようなつもりは毛頭ございません! わ、わかりました、建設ギルドでもヤンド・ボンド法に加えてキロ・メトル法の規格の導入を検討させて頂きます!」
「検討? 話にならんな。ではこの公共事業は無かったことにせねばなるまい。何しろ、この事業はキロ・メトル法の採用を前提としている。検討する、などといういい加減な決意では到底安心して任せられんな。母上、他領の建設ギルドか、いっそのこと母上の生国、グレイスベルグ王国の建設ギルドに発注するのは如何でしょうか」
「そうですわね、このような煮えきらない態度のギルドマスターには、今後の発注先についても考え直さなければなりませんわね。では早速父に、グレイスベルグ王に相談する書状をしたためましょうか」
ギルドマスターの顔色は青白を通り越して土気色になった。
脂汗を拭うことも忘れて慌てて立ち上がる。
母上の前でいきなり立ち上がったせいだろう、部屋に控える衛兵がギルドマスターの肩を掴み強引に座らせる。
「どうしました、ギルドマスター? 受注の意思がないのなら公爵家は無理強いなど致しませんわ。幸い私もしばらくぶりに父に手紙を書きたいと思っておりましたの」
「母上、それではお祖父様に我が領で開発したキロ・メトル原器と定規、量りもお送りしては如何でしょうか? この規格の詳細もまとめておりますので、叡明なるお祖父様ならばきっとこの規格の有用性を見抜かれるはずです」
「まぁ、それは良い考えですわ。是非そのように致しましょう」
「おおおお待ちください! キロ・メトル法、建設ギルドでも喜んで取り入れさせていただきます!」
「あら、どうしたんですの? 急な心変わりなど、信頼を損ないますわよ? わたくし達ダンストン家も、ギルドに対して無理を強いるつもりは毛頭ありませんわ。わたくし達はこれからグレイスベルグへの書状をしたためなければなりませんの。セバスチャン、ギルドマスターをお見送りして差し上げなさい」
家宰のセバスチャンは、元父上直属の騎士であった男で、屈強な身体つきで剣術、体術の達人でもある。
実務能力は母上が認めている、という時点でももはや保証されたも同然。その男、セバスチャンがギルドマスターの背後に静かにたった。
「心変わりなどではございません……このロスル・ロージ、建設ギルドマスターとしてこのキロ・メトル法の素晴らしさがようやく理解できましてございます、はい……」
「まぁ、ご理解頂けたようで重畳ですわ」
母上の声色が変わる。
さすがは母上だ。交渉のスキルに関しては、父上ですら母上にはかなうまい。
「では、公共事業の詳細について、話し合うと致しましょうか」
「畏まりました、奥様……」
さぁ、仕事の話だ。このキロ・メトル法の素晴らしさ、すなわち『悪徳』の素晴らしさを世に知らしめるときだ。




