第6話 それ、まだ使うつもりですか
翌朝、目が覚めて最初にやったのは、右足がどこにあるか確かめることだった。
布団の中で足首を動かす。
動く。
痛くもない。
ただ、自分では膝を少し曲げているつもりなのに、掛け布団をめくるとほとんど伸びていた。
「まだ残ってるか」
昨夜よりはましだ。
センターから送ってもらった時は、玄関で靴を脱ぐだけで妙に時間がかかった。右足を靴から抜いたつもりで体重を移したら、まだ半分入っていて壁に肩をぶつけた。
誰にも見られていなくてよかった。
キッチンまで歩く。
床に物を置かない習慣だけは、こういう時に役立つ。
冷蔵庫を開け、昨日買っていたおにぎりを出した。
限定の濃厚豚骨味カップ麺もある。
一瞬迷って、おにぎりにした。
湯を運ぶのは、今日じゃなくていい。
スマホが震えた。
早瀬さんからだ。
『朝シフト終わった』
時計を見る。
九時十二分。
『お疲れ』
『お前の代わりに倉庫火災の確認行った』
『マジで悪い』
『飯』
『覚えてる』
『千円じゃ足りない』
まだ言ってる。
返信しようとしたところで、別の通知が来た。
機構の勤務管理。
『本日午前:現場勤務不可』
『十一時再評価』
『午後:結果により内勤可』
当然だ。
昨日の夜の時点で分かっていた。
それでも勤務表から自分の名前が外れているのを見ると、少し腹が立つ。
誰に、ではない。
たぶん自分に。
おにぎりの包装を剥がしながら、俺は早瀬さんへの返信を途中でやめた。
十一時の再評価では、右足の位置感覚はかなり戻っていた。
完全ではない。
目を閉じた状態で指定された位置へ足を置く検査をすると、三回に一回くらい数センチずれる。
結果、
「午後は内勤のみ」
になった。
現場復帰は明日の朝に再確認。
俺は機構の拠点へ戻り、ロッカーで昨日の装備をまとめた。
防護ジャケット。
グローブ。
腰部ハーネス。
簡易通信端末。
ボディカメラ。
昨日の医療センター事件で使ったものというより、昼の鉄骨事故からそのまま持ち込んだ装備だ。
左のグローブには擦れた跡がある。
ハーネスの右側にも、白っぽい線が一本入っていた。
「これくらいなら返却でいいか」
独り言を言いながらケースへ入れる。
「よくないですよ」
後ろから声がした。
振り向く。
作業着の女性が立っていた。
俺と同じくらいの年に見える。
赤みのある暗い茶色の短い髪。透明な保護眼鏡を額へ上げ、片手に小型端末、もう片方には工具ケース。
視線は俺ではなく、ハーネスへ向いていた。
「それ、まだ使うつもりですか?」
「明日使えるなら」
「じゃあ使わないでください」
「即答だな」
女性は俺の前まで来てしゃがむ。
「見せてもらっていいですか?」
「どうぞ」
ハーネスを渡す。
金具を一度動かし、ベルトを指で折り曲げる。
さっき俺が見ていた白い線のところで手が止まった。
「これ昨日です?」
「たぶん」
「たぶん?」
「一昨日はなかったと思う」
「どこで荷重掛けました?」
「鉄骨」
女性が顔を上げた。
「鉄骨?」
「押さえた」
「ハーネスで?」
「身体で」
「じゃあ何でここに跡があるんですか」
「知らない」
「知らないって言われると技術側が一番困るんですけど」
怒ってはいない。
でも笑ってもいない。
「鉄骨の時、左足を支柱に当てて、身体捻ってたから。その時どっかに擦ったかも」
「どっか」
「覚えてない」
「うーん……」
女性はベルトを裏返す。
「交換します」
「これで?」
「これだからです」
「切れてないけど」
「切れてから持ってこられても遅いです」
「明日現場戻れるかもしれないんだけど」
「だから交換します」
今度は笑った。
言い方は柔らかいのに、譲る気が全然ない。
「代替あります?」
「あります。サイズ確認するので待ってください」
「助かる」
「あとグローブも」
「これはただ擦れてるだけ」
「私が決めます」
「厳しいな」
「鳴海さんが雑なんですよ」
名前を呼ばれた。
「知ってるの?」
「装備ID見ました」
女性がハーネスのタグを指で示す。
そこに俺の管理番号がある。
「あと、この番号何回か見たことあります」
「そんな壊してる?」
「壊してるというか……妙な傷み方する人だなとは」
「それ褒めてないよね」
「まだ褒めてないです」
「今後褒める可能性ある?」
「使い方が綺麗なら」
たぶんなさそうだ。
「藤崎さん」
技術室の奥から男の声が飛ぶ。
「午前の試験ログ上がってる」
「今行きます!」
返事をしてから、女性――藤崎が俺を見た。
「すみません。これ持って中入ってもらえます?」
「俺が?」
「私、別件あるので。受付台の赤い箱に入れてください」
「修理する人が持ってかないんだ」
「修理する人が一人しかいないと思わないでください」
「それもそうか」
ケースを持つ。
「藤崎、下の名前は?」
「灯里です」
「鳴海朔也」
「知ってます。今聞きました」
「装備IDで?」
「それもあります」
藤崎灯里は端末へ視線を落としながら、技術室の奥へ歩いていった。
俺も赤い箱とやらを探す。
技術区画へまともに入るのは久しぶりだった。
普段は返却口へ装備を置いて終わる。
中には作業台が何列か並び、分解された通信端末や保護具が置かれている。
壁際では別の職員がヘルメットの固定具を交換していた。
現場で何分か使う道具に、ここでは何時間も掛けている。
「赤い箱……」
「右です」
遠くから藤崎の声。
「右?」
「鳴海さんから見て右!」
見る。
本当にすぐ横にあった。
「ありがとう」
「昨日の視覚反動残ってるんですか?」
「いや。これは普通に見落とした」
「じゃあ安心しました」
「何に?」
「装備じゃなくて鳴海さんを修理に回すところでした」
「人をそっちで直すな」
奥から笑い声がした。
藤崎本人も笑っている。
昨日まで顔も知らなかった相手に、随分遠慮がない。
赤い箱へ装備を入れようとすると、
「待ってください!」
また呼ばれた。
「今度は何」
「グローブ別です! 上のトレー!」
「先に言って」
「普通は表示見れば分かります!」
「普通が今日ちょっと信用できない」
「もう視覚戻ってるって言ったじゃないですか!」
結局、藤崎がこっちまで来た。
「貸してください」
「自分でできる」
「知ってます。でも次の試験始まるので、私がやった方が早いです」
「さっき俺に持ってけって言ったのに」
「状況変わりました」
俺からケースを受け取り、ハーネスとグローブを別々の場所へ入れる。
動きは速い。
慣れているというより、迷う時間が少ない。
「これで終わりです」
「代替は?」
「午後にロッカーへ入れておきます」
「ありがとう」
「ただし」
藤崎が工具ケースを持ち直した。
「次から、壊れてるかどうか自分で判断しないでください」
「壊れてないと思ったら?」
「持ってきてください」
「毎回?」
「気になる傷があれば」
「全部持ってきたら怒るでしょ」
「内容によります」
「難しいな」
「現場の人って、すぐ『まだ使える』って言うんですよ」
「使えるからな」
「使えてる間に交換するのがこっちの仕事です」
そこだけ、声が少し固かった。
俺はハーネスの入った箱を見る。
もし昨日その傷がもっと深かったら。
何か変わったかもしれないし、別に何も変わらなかったかもしれない。
俺には分からない。
「了解」
答えると、藤崎が一瞬止まった。
「素直ですね」
「白瀬さんにも昨日言われた」
「それ褒められてます?」
「多分違う」
「ですよね」
藤崎は笑いながら技術室の奥へ戻った。
俺はそのまま内勤席へ向かう。
午後の仕事は、昨日の報告書と装備使用記録。
現場より眠くなる。
十分ほど端末と睨み合ったところで、早瀬さんが戻ってきた。
「お、生きてる」
「おかげさまで」
「俺は朝から働いてたけどな」
「飯は奢るって」
「焼肉」
「千円」
「まだ言うか」
早瀬さんが隣の椅子へ座る。
「足どうだ?」
「明日再評価」
「午後は?」
「内勤」
「そりゃ見りゃ分かる」
俺の画面を見る。
「報告書、まだ二行じゃん」
「十分钟やってる」
「才能ないな」
「現場戻りたい」
「戻ってまた俺のシフト増やすなよ」
「善処します」
「その言葉が一番信用ならん」
昨日から信用がない。
端末の右下に、新しい通知が出た。
技術支援。
『交換品準備完了』
早い。
開く。
『腰部ハーネス:使用停止・交換』
『左グローブ:表皮損傷のみ、継続使用可』
その下に、一行だけ備考。
『次回、鉄骨に装備ごと突っ込む前に連絡してください。藤崎』
「無理だろ」
思わず言った。
「何が?」
「いや」
現場に入る前に、壊れる装備が分かれば苦労しない。
それでも俺は、明日使う新しいハーネスを受け取りに行くため、報告書の画面を一度閉じた。




