第5話 明日の予定が一つ減る
事件が終わって最初にやったのは、事情聴取でも反省会でもなかった。
「左手、人差し指。私の指に触れてください」
「それ、今やる?」
「今やります」
白瀬由良の声に従って、俺は左手を伸ばした。
狙ったのは白瀬の人差し指だった。
実際に触れたのは、その少し下。
「もう一回」
「見えてはいるんだけどな」
「知ってます」
「だったら多少ずれても」
「駄目です」
白瀬の後ろにある棚。カーテンの皺。壁の時計。開いたままの端末。隣のベッドで足を組み直そうとしている倉橋。
全部が目に入る。
何を無視すればいいのか、頭が決めてくれない。
俺は白瀬の指だけを見るつもりで、もう一度手を伸ばした。
今度は当たった。
「はい。次、目閉じて」
「それで当たるなら視覚いらないじゃん」
「そうですね」
「否定してほしかった」
「今それ必要ですか?」
「少し」
「必要なし」
白瀬が検査結果を入力する。
事件が終わって二十分ほど。
高津と真鍋は警察に引き渡され、人質になっていた職員にも大きな怪我はなかったらしい。
俺と倉橋は、そのまま元いた短期観察区画へ戻された。
正確には戻されたというより、白瀬に連行された。
「倉橋さん。次いきます」
「はい」
隣で倉橋が立つ。
一歩目を出す前に、右足と左足がわずかに動いた。
倉橋が舌打ちする。
「今のなしで」
「なしにはなりません」
「じゃあ一回目」
「今のが一回目です」
「厳しい」
「普通です」
白瀬は俺にやった時と同じ顔で倉橋を見ている。
「右足から三歩」
倉橋が右足を出す。
二歩目で左足まで出かけて止まり、三歩目は少し間を置いてから進んだ。
「戻ってください」
「これで勤務外れるほどですか?」
「まだ決めてません」
「明日の午前、評価訓練なんです」
「知りません」
「いや、勤務に関係する話なので」
「だったらなおさら、今の検査結果を先に見ます」
「……はい」
納得していない返事だった。
倉橋はベッドへ戻ると、すぐスマホを開いた。
俺より指はまともに動く。
代わりに、座った姿勢から脚の位置を直すだけで一度動きが引っ掛かった。
「明日の訓練、そんな大事?」
俺が聞くと、倉橋は画面から目を上げた。
「先月一回外してるんです」
「反動で?」
「別件です。現場が伸びて間に合わなかっただけ」
「なら仕方ないだろ」
「仕方ないで二回続けて外れたら、次の選抜で印象悪いじゃないですか」
「何の選抜?」
「救助対応の上位研修」
「へえ」
「興味なさそう」
「俺が受けるわけじゃないし」
「普通、もう少し何かないです?」
「頑張れ」
「雑」
倉橋はまたスマホへ視線を落とした。
数秒して、顔が露骨に嫌そうになる。
「外れた?」
「原田さんから『明日俺が代わる』って」
「早いな」
「班に連絡回ったんでしょうね」
返信欄を開いたまま、倉橋が止まる。
何を書くか迷っているらしい。
さっきまで人質事件の中ではあれだけ判断が速かったのに、こういうところでは普通に迷う。
俺が見ていることに気づき、倉橋がスマホを伏せた。
「何ですか」
「いや」
「絶対何か思ったでしょ」
「現場より返信の方が時間かかるんだなって」
「うるさいです」
白瀬が吹き出した。
倉橋が今度はそっちを睨む。
「白瀬さんまで笑わないでください」
「すみません。ちょっとだけ」
「絶対すみませんと思ってない」
「はい、次検査しますよ」
「切り替え早すぎません?」
白瀬は聞かなかったことにして器具を取った。
そのまましばらく、俺たちは順番に検査を受けた。
俺の視覚処理は相変わらずうるさい。
倉橋の脚も、さっきより明らかに動作の切り替えが悪い。
それでも二人とも会話はできるし、飯も食える。
能力を使ったら毎回ベッドで死にかけるわけじゃない。
ただ、明日できることが少しずつ減る。
「鳴海さん」
白瀬に呼ばれた。
「このあと警察の確認があります。今の状態で文章読むのきついですよね」
「長いのは嫌」
「嫌かどうかじゃなくて」
「読めなくはない。でも多分、抜ける」
「じゃあ口頭中心でお願いしておきます。確認書面は読み上げてもらってください」
「助かる」
「あと移動はまだ駄目です」
「帰れない?」
「少なくとも視覚が落ち着くまでは」
「電車なら座ってるだけだけど」
「駅までどうやって行くんですか」
「歩く」
「その答えを聞いて安心できると思いました?」
「思ってない」
「なら聞かないでください」
白瀬は端末を閉じた。
「私はあと少しで引き継ぎます。以降は真壁先生と夜勤スタッフに確認してください」
「帰るの?」
「帰りますよ」
「映画」
「間に合えば」
「今日のせいで?」
「事件のせいです。鳴海さんのせいにすると話がややこしくなるのでやめてください」
「俺まだ何も言ってないけど」
「顔に書いてありました」
「見える?」
「それくらいは」
白瀬は腕時計を見る。
「友達には連絡しました。最初の回は無理なので、一本後にするか相談中です」
「仕事終わって映画行く元気あるんだな」
「鳴海さんと一緒にしないでください」
「どういう意味?」
「そのままです」
今日は本当に失礼だ。
ただ、残るとは言わなかった。
俺の検査がまだ続いても、自分の勤務が終われば引き継いで帰る。
別に白瀬が最後まで俺を見ている必要はない。
それで困ることもなかった。
十八時を少し過ぎた頃、警察の人が来た。
聞かれたのは見たことだけだった。
灰色のケースが滑ってきた場所。
真鍋が床へ触れたタイミング。
高津が職員を脅した時の位置。
刃物を持っていた腕。
俺が最後に入った理由。
「人質への危害が近いと判断した?」
「はい」
「高津さんが実際に切ろうとしたように見えた?」
「そこまでは分かりません」
刑事らしい男性がペンを止めた。
「分からない?」
「腕が下がって、刃が首に近づいたのは見ました。でも故意に切ろうとしたか、職員が崩れたせいかは見分けられてないです」
「なるほど」
それ以上は聞かれなかった。
見えていたことと、俺がそう思ったことは別だ。
特にあの時の俺の視界を考えれば、余計な断定はしない方がいい。
事情確認の最後に、刑事が灰色のケースについて少しだけ教えてくれた。
中身はセンター管理の薬剤。
反動そのものを消すものではなく、痛みや感覚過敏、自律症状なんかを抑えるために使うものらしい。
「物流記録も確認しています。今回だけじゃない可能性がありますが、それはこっちで調べます」
「売るつもりだったんですか」
「高津さんの端末に、それらしいやり取りが残っています」
「誰に?」
「そこから先はまだ」
「ですよね」
聞いただけだ。
俺が調べることでもない。
刑事が帰ったあと、短期観察区画の前を通る職員たちが少し増えた。
西側物流区画では警察とセンター職員が出入りしている。
事件が終わったからといって、ケースを元へ戻して全部終了とはならないらしい。
どの扉から入ったのか。
どこで照合に引っ掛かったのか。
なぜ患者移送側まで来られたのか。
廊下の向こうで、そんな話をしているのが断片的に聞こえた。
十九時前。
倉橋が正式に明日の午前勤務と評価訓練を外された。
「……最悪」
結果を聞いた第一声だった。
白瀬はもう帰ったあとで、夜勤スタッフから説明されている。
「午後は再評価次第です」
「午前だけでも駄目ですか」
「今の状態では」
「分かりました」
今度は言い返さなかった。
でも納得した顔でもない。
スタッフが離れたあと、倉橋はしばらく自分の靴を見ていた。
「そんな行きたかった?」
「行きたかったですよ」
「また機会あるだろ」
「ありますけど、明日行きたかったんです」
「そっか」
「鳴海さん、そういうの気にしないタイプですよね」
「何が」
「明日の予定潰れるの」
「普通に嫌だけど」
「でも能力使うじゃないですか」
「使うなとは言われてないし」
「そういう話じゃなくて」
倉橋は途中でやめた。
「……まあいいです」
「何」
「今日話して分かりました。たぶん説明しても噛み合わない」
「失礼だな」
「お互い様です」
そう言ってから、倉橋は少し考える。
「ただ」
「うん」
「次、一緒の現場になることがあったら」
「別チームだけど」
「今日みたいなこともあるじゃないですか」
「まあ」
「今払ってる反動くらいは、先に言ってください」
「何で?」
「こっちの判断に必要だからです」
「俺も倉橋の知らないけど」
「聞いてください。必要なら答えます」
即答だった。
「全部は言いませんけど」
「そこは言わないんだ」
「必要な範囲です」
「じゃあ俺もそれで」
「鳴海さんの場合、その『必要』の判定が信用できないんですよ」
「今日会ったばっかりみたいなものなのに評価低すぎない?」
「今日だけで十分材料あります」
反論しづらい。
そのあと倉橋はチームの人が迎えに来て帰った。
歩く時はまだ少し引っ掛かっていたが、誰かに支えてもらうほどではない。本人も支えは断っていた。
俺の視界がようやく少し静かになってきたのは、二十時前だった。
代わりに、十八時台後半から脚の出力が怪しくなっている。
立ち上がろうとすると、思ったより強く床を蹴る。
弱くしようとすると今度は足りない。
昼じゃない。
高津へ踏み込んだ時に後へ送った分だ。
「今日は公共交通機関はやめましょう」
夜勤スタッフに言われ、機構側の車で送ってもらうことになった。
迷惑を掛けている。
分かっている。
だからといって、あの時動かなかった方がよかったとは思えない。
そこまで考えたところでスマホが震えた。
早瀬さんからだった。
『明日の朝シフト、俺が被った』
続けてもう一件。
『飯一回な』
俺は左手で返信欄を開いた。
『悪い。今度おごる』
すぐ既読。
『高いとこ』
『上限千円』
『反省が足りない』
少し笑った。
二十時五十分を過ぎた頃、椅子から立とうとして違和感があった。
右足は床についている。
見れば分かる。
なのに、自分の感覚では数センチずれた場所にある気がした。
今度は、夕方の廊下で借りた分らしい。
俺はスマホをポケットへしまい、立ち上がる前に右足の位置を一度だけ確かめた。




