第4話 使えないなら、使わない
見えている。
白瀬の顔も、倉橋の髪も、廊下の奥で点滅する非常灯も。
全部、ちゃんと見えている。
問題は、その全部が同じくらい重要に見えることだった。
白瀬の名札に反射する光と、二十メートル先を走る警備員の動きが、同じ強さで頭へ入ってくる。床の傷。案内表示。開いた扉。誰かの靴。壁際の消火器。
普段なら勝手に捨てているものを、捨てられない。
「鳴海さん、こっち」
白瀬が指を鳴らした。
音へ顔を向ける。
「私だけ見てください」
「それが難しい」
「じゃあ床でもいいです。情報を減らして」
言われた通り、視線を白瀬の胸元ではなく足元へ落とした。
「今の気分は?」
「最悪」
「医学的な話してます」
「だったら先に言って」
「吐き気、頭痛、めまい」
「ない」
「光は?」
「眩しいわけじゃない。全部うるさい」
「分かりました」
白瀬が端末へ入力する。
その横で倉橋が廊下の向こうを見ていた。
「高津って人、まだ移送ベイ側ですよね」
「警察と警備が対応しています」
白瀬は顔を上げない。
「倉橋さんも戻って座ってください」
「でも人質が」
「いるから警察が来ています」
言い方は淡々としている。
止めたいから止める、ではない。今の倉橋が行かなければならない理由がないと言っているだけだ。
廊下の向こうから、拡声器を通した声が聞こえた。
『刃物を下ろしてください。出口は確保できません。まず職員の方を――』
「来てるな」
「何がです?」
「警察」
「とっくに来てます」
白瀬に言われた。
そうらしい。
視界だけを頼りにすると、近くを通った警備員も遠くの警察官も同じように入ってきてしまう。
俺は目を閉じた。
音だけにすると、少し楽だった。
倉橋が近くで息を吐く。
「それ、目閉じて平気なんですか」
「歩かなきゃな」
「歩く気でいるじゃないですか」
「今はない」
「今は、って付けるのやめません?」
返事をする前に、遠くで誰かが怒鳴った。
「待て!」
靴音。
何かが床を滑る音。
続いて、さっきとは違う男の声。
「もう知らねえからな!」
俺は目を開けた。
白瀬が廊下側へ振り返る。
職員用扉の向こうを、一人の男がこちらとは逆、西側へ走っていく。
高津と一緒にいた男だ。
灰色のケースは持っていない。
「真鍋俊、止まって!」
警備員が名前を呼んだ。
真鍋。
これで二人とも名前が分かった。
真鍋が床へ手をつく。
その先にいた警備員二人が一斉に足を止めた。
「床、来るぞ」
俺が言うより早く、警備員たちは壁側へ寄った。
もう能力を把握している。
真鍋が自分で滑らせた床を走る。
一歩。
二歩。
三歩目で身体が大きく左へ流れた。
「くそっ……!」
壁へ肩をぶつける。
それでも止まらず、職員階段の方へ向かった。
だが、階段前には別の警察官がいた。
「止まれ!」
真鍋の足が止まる。
後ろは滑る床。
前には警察。
右は閉鎖扉。
左は壁。
真鍋が周囲を見た。
何かしようと手を伸ばして、途中でやめる。
「……もういい」
聞き取れるくらいの声だった。
両手を上げる。
警察官が一人ずつ近づき、床の状態を確認しながら確保に入った。
能力の反動で倒れたわけじゃない。
逃げる場所がなくなったから、やめただけだ。
「一人確保!」
無線の声が飛ぶ。
倉橋が小さく息を吐いた。
「もう一人だけ」
「その一人が人質持ってる」
「分かってます」
少し早口だった。
白瀬も気づいたらしい。
「倉橋さん。今、右足から三歩だけ」
「また検査ですか?」
「歩けるって言うので」
倉橋が嫌そうな顔をした。
それでも壁際へ移動し、右足を出す。
一歩目。
二歩目で左足まで動きかける。
止める。
三歩目は出た。
「さっきより悪いですね」
「動けます」
「聞いてません」
「白瀬さん、最近それ気に入ってます?」
「鳴海さんのせいで使用頻度が上がりました」
俺のせいらしい。
倉橋が何か言い返そうとした時、サービス扉の向こうから職員が走ってきた。
「短期観察の方、もう少し東へ下げます! 高津が移送ベイまで来ています!」
「人質は?」
「まだ一緒です。警察がロビー側を塞いでますけど、下がらなくて」
職員は白瀬へ話しながら、壁の案内図を指した。
「後ろを切れればいいんですけど、煙区画シャッターが上がったままで」
「遠隔で下ろせないんですか?」
「今、区画制御が一部手動です。西側の異常で安全側に開放されてて。ローカル盤なら落とせます」
「どこです?」
聞いたのは倉橋だった。
白瀬が倉橋を見る。
「聞いただけです」
「移送ベイ手前、南壁」
職員が答えてしまった。
「黄色いカバーの操作盤です。ここからなら廊下一本ですけど――」
倉橋が案内図を見る。
俺も見る。
見ない方がいいものまで全部見えるせいで、図の文字を追うだけでも疲れる。
南壁。
操作盤。
シャッター。
それだけ拾う。
「倉橋」
「何です?」
「行く気?」
「高津の後ろを閉じれば、警察側へしか動けなくなります」
「それは分かる」
「なら」
「今のお前が行く必要ある?」
倉橋が黙った。
少し考えている。
白瀬は何も言わない。
職員も、答えを待っている。
倉橋が自分の足元を見た。
「普通に走ったら、途中で引っ掛かると思います」
「うん」
「でも、一回なら行けます」
「明日外れるかもよ」
白瀬が言った。
「今ので軽くは済まないと思います」
「分かってます」
「今度は本当に?」
「……それ、私にも言うんですね」
「鳴海さんほどじゃないです」
「比較対象が悪い」
倉橋が俺を見る。
「鳴海さんは?」
「視覚は使えない」
「他は」
「使えるものはある」
「じゃあ私が行った後、勝手に前へ出ないでください」
「何で命令されてるんだ」
「さっき私の腕、勝手に掴んだからです」
まだ覚えていた。
「それは謝っただろ」
「別件です」
どう別件なのか分からない。
倉橋は職員へ確認した。
「黄色いカバー。南壁。押すのは?」
「閉鎖ボタンです。赤じゃなくて、その下の黒。赤は非常停止」
「分かりました」
倉橋が一度息を吐く。
目が変わった。
行き先が決まった時の顔だ。
「行きます」
踏み出す。
さっきまで一歩目にあった引っ掛かりが消えた。
速い。
でもやっぱり、速度じゃない。
床の滑りそうな場所を外し、壁際の狭い線を抜ける。途中で一度身体を傾け、開いた扉の陰を回り込む。
迷わない。
《最短路》。
倉橋が移送ベイへ入る。
俺はその背中を追わなかった。
視界の中に入ってくるものを減らすため、壁へ身体を寄せた。
ここから先は警察がいる。
倉橋は操作盤へ行く。
俺にできることは、今はない。
そう思った瞬間。
「ふざけんな!」
高津の声が響いた。
金属音。
倉橋が黄色いカバーを上げる。
「閉めます!」
「待て!」
警察側から声が飛ぶ。
「人質が区画線に近い!」
倉橋の指が止まった。
高津が職員を抱えたまま後ろへ下がったらしい。
視界へ入ってくる。
人質。
高津。
カッター。
警察官。
倉橋。
黄色い操作盤。
床のライン。
シャッター。
全部見える。
全部邪魔だ。
「鳴海さん!」
倉橋の声。
「どこまで下げればいい!」
俺は一度目を閉じた。
さっき見た位置関係だけを残す。
「人が通れないところまででいい! 床の線一本残せ!」
「分かった!」
モーター音が響く。
シャッターがゆっくり下がり始めた。
高津が振り返る。
「何してんだ!」
人質を引っ張って、シャッターの下を抜けようとする。
警察側から制止の声。
「動くな! 刃物を離せ!」
「来るな!」
高津が人質の身体を前へ押す。
職員の足がもつれた。
膝が落ちる。
カッターを持った高津の腕も一緒に下がる。
刃が首元へ寄った。
近い。
俺から四メートルもない。
視覚を借りることはできない。
だから、見なければならないものを一つにする。
刃物を持つ右腕。
それだけ。
床を蹴った。
脚の出力を一瞬だけ後ろへ回す。
身体が前へ出る。
速さに目が追いつかなくてもいい。
四メートルなら、途中で判断を変える必要はない。
左腕で高津の右肘を外から押す。
狙ったのは手首じゃない。
今の視界で細い場所を掴むのは危ない。
肘ごと扉の枠へぶつける。
「ぐっ!」
カッターが人質の首から離れた。
落ちない。
高津がまだ握っている。
それで十分だった。
「離れろ!」
警察官が人質を引く。
俺は高津の腕を押さえたまま、身体を横へ逃がした。
ここから先まで自分でやる必要はない。
二人の警察官と警備員が一気に入る。
高津の身体が床へ伏せられた。
「痛え! 離せ!」
「刃物確保!」
「人質、こっち!」
声が重なる。
俺は下がろうとして、足がもつれた。
能力の反動じゃない。
今の踏み込みで、普通に脚へ負荷が来ただけだ。
壁へ手をつく。
「鳴海さん!」
白瀬の声がする。
どこだ。
顔を上げると、白瀬だけじゃなく、警察官も倉橋も高津も人質も全部一度に見えた。
「……やっぱこれ嫌いだな」
「何がですか!」
「今の視界」
「知ってます!」
白瀬が俺のところまで来る。
戦闘が終わったのを確認してからだ。
「座れます?」
「椅子どこ」
「目の前」
「それが見つからない」
白瀬が一瞬だけ黙った。
それから椅子の背を軽く叩く。
「音の方。半歩右です」
「助かる」
腰を下ろす。
向こうでは、高津に手錠が掛けられていた。
灰色のケースも警備員が確保している。
倉橋が操作盤から戻ろうとして、一歩目で止まった。
右足と左足がほとんど同時に出かけている。
予想通り、さっきより悪い。
「倉橋」
「……はい」
「こっち来れる?」
「来れます」
一歩。
止まる。
倉橋が眉をしかめた。
「訂正。ちょっと面倒です」
「右足から」
「分かって――」
言いかけて、倉橋が口を閉じる。
「……次だけ言ってください」
「右。壁沿い」
右足が出る。
「止まって。次、左」
倉橋が一歩進む。
「そのまま三歩」
「三歩は多い」
「じゃあ一歩ずつ言う?」
「そこまではいらないです」
注文が多い。
それでも倉橋は壁際まで戻ってきた。
俺の隣の椅子へ座る。
しばらく二人とも何も言わなかった。
高津の怒鳴り声も、警察の無線も、施設職員の声もまだ聞こえる。
事件は終わったらしい。
倉橋が先に口を開いた。
「鳴海さん」
「何」
「最後、見えてたんですか」
「見えてたよ」
「まともに?」
「それは別」
「……それで行ったんですか」
「刃物持ってる腕だけなら追えたから」
倉橋が俺を見る。
褒める顔ではなかった。
「やっぱり、その身体の使い方嫌いです」
「今日二回目じゃない?」
「まだ一回目です。さっきは言ってません」
「そうだっけ」
「でも」
倉橋は、自分の足を見た。
「さっきは助かりました」
「どっち」
「操作盤のところ」
「それ、俺ほとんど何もしてないけど」
「必要なことだけ言ったじゃないですか」
そこで白瀬が戻ってきた。
「二人とも検査室戻ります」
「事件終わったのに?」
俺が言うと、白瀬は本気で意味が分からない顔をした。
「だからです」
倉橋が小さく笑った。
「鳴海さん、本当に毎回これなんですね」
「何が」
「勝った後の方が弱い」
否定しようとして、やめた。
今は椅子から立つだけでも、少し面倒だった。




