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3/20

第3話 見えているのに、足りなくなる



 男が職員の首元へ突きつけているのは、刃渡りの短いカッターナイフだった。


 大げさな武器じゃない。


 たぶん、仕事で使っていたものだ。


 だから余計に嫌だった。


 ここへ来る時から人を傷つけるつもりだった奴じゃない。逃げられなくなって、今ある物を使った。そういう相手は、自分でも次に何をするか決めきれていない。


「開けろって言ってるだろ! そっちの扉!」


 男が怒鳴る。


 制服ではなく、紺色の作業着。胸元の会社名は、人質になっている職員の肩に隠れて読めない。


 片腕で職員を抱え込み、もう片方の手にカッター。


 足元には、さっき廊下を滑ってきたものと同型の灰色のケースがあった。


 その少し後ろに、もう一人いる。


 同じような作業着の若い男。


 こっちは誰も捕まえていない。


「高津さん、もういいって」


「うるせえ!」


「ケース置いて、西から戻った方が――」


「閉められてんだよ!」


 名前が一つ分かった。


 人質を取っている方が高津。


 もう一人は、高津の言葉に顔をしかめた。


 その足が、床の上でわずかに滑る。


 あいつか。


 さっきから床をおかしくしている能力者。


「患者さん、奥の部屋へ移します」


 白瀬が低い声で言った。


 俺たちにではなく、近くの職員へだ。


「歩ける方から東側へ。車椅子は滑っている場所を避けてください。さっきの区画はまだ床面が安定してません」


「分かりました」


 職員が動く。


 白瀬も一緒に患者のところへ行った。


 こっちを振り返らない。


 今は俺たちより、患者の方が優先だ。


 当然だった。


 倉橋がベッドの縁へ手をついて立つ。


「座ってろって言われてただろ」


「鳴海さんも立ってます」


「俺は見てるだけ」


「私もです」


「嘘つけ」


「そっちも」


 言い返された。


 さっき《最短路》を使ったばかりなのに、声はいつも通りだ。


 ただ、姿勢を変えるたびに一度だけ足元を確認している。


 本人も反動が増えたのは分かっている。


 高津が人質の背中を押した。


「こっち来い!」


 職員がよろめく。


「やめてください!」


「うるせえ! 扉開けろ! 外まで出せ!」


 高津が指しているのは、患者移送用のサービス扉だった。


 あそこを抜ければ、観察区画の裏から患者移送ベイへ出る。


 その先が一般ロビーに繋がっている。


 ただし、もう警察が来ているはずだ。


 さっき職員同士の無線で、東側到着という言葉が聞こえた。


 高津が知っているかは分からない。


「高津さん、そっちは無理だって」


 後ろの男が言う。


「今ならまだ――」


「お前は黙ってろ!」


「いや、だから薬置けば――」


 高津が振り返った。


 一瞬だけ。


 人質の首から刃が離れる。


 倉橋の身体が前へ出た。


「待て」


 俺は反射的に倉橋の腕を掴んだ。


「っ、何するんですか!」


「今じゃない」


「分かってます!」


「じゃあ何で出た」


「扉の横!」


 倉橋が顎で示す。


 見る。


 人質になっている職員から三メートルほど離れた壁際に、別の患者がいた。


 白瀬たちの誘導から漏れたらしい。高齢の女性が椅子に座ったまま、身動きできずにいる。


 高津しか見ていなかった。


「……悪い」


「離してください」


 手を離す。


 倉橋が俺を睨んだ。


「勝手に止めないでください」


「今のは俺が悪かった」


「認めるの早いですね」


「間違えた時まで意地張る趣味ないから」


「その割に普段は意地張ってそうですけど」


 今それを話している場合じゃない。


 俺は椅子の女性を見る。


 そこまでの床に、さっきほど明らかに滑っている部分はない。


 ただ、高津たちのすぐ横を抜けることになる。


「俺が行く」


「私が行きます」


「またか」


「距離、私の方が近いです」


「能力使うなよ」


「使いません」


「ならいい」


 倉橋が先に動いた。


 俺も少し遅れて反対側へ回る。


 高津はまだ職員へ扉を開けさせようとしている。


 後ろの男はケースを持ち上げようとして、一度取り落とした。


「くそ……」


 手の感覚も来てるのか。


 灰色のケースを掴み直すが、今度は持ち上げず床を押した。


 ケースがするりと滑る。


 能力を使った。


 でもさっきより動きが雑だ。


 本人の足も半歩ずれた。


「高津さん、マジでもうやめましょう。俺、これ以上使えないって」


「知るかよ!」


 高津は振り返らない。


 仲間の反動より、自分が逃げる方が大事らしい。


 あいつが悪人だから、というより、今は本当にそこしか見えていないんだろう。


 倉橋が椅子の女性へ近づく。


「すみません。立てますか?」


 女性が首を振った。


「じゃあ、椅子ごと動かします。少し揺れます」


 倉橋が背もたれに手を掛ける。


 その時、高津の後ろにいた男がこちらを見た。


「おい!」


 まずい。


「何してんだ!」


 男が手を床へついた。


「倉橋、離れろ!」


 床が変わる。


 見た目には何も変わらない。


 でも倉橋の靴が横へ滑った。


「っ!」


 椅子も動く。


 座った女性ごと、高津の方へ滑り始めた。


 倉橋が椅子を掴む。


 止まらない。


 俺は踏み込んだ。


 今度は、さっきみたいに身体の位置を借りない。


 一回使った分は後へ回してある。ここで重ねれば、今夜の自分が面倒になる。


 滑るのが分かっているなら、壁を使えばいい。


 手すりへ左手を掛ける。


 右手はまだ力加減が怪しい。


 握らない。


 掌を押しつけて身体を止め、滑ってくる椅子の側面へ足を当てる。


「倉橋、そのまま!」


「分かってます!」


「右に逃がす!」


「そっち患者います!」


 いた。


 さっき移動した患者が一人、廊下の右側を職員に支えられて歩いている。


 見落とした。


「左!」


「遅い!」


 倉橋が椅子を引いた。


 俺は押す。


 方向が噛み合わず、椅子が一度回った。


「うわっ」


 女性が声を上げる。


「すみません!」


 倉橋が謝りながら身体を入れ直す。


 このままだと高津側へ流れる。


「壁に当てる!」


「最初からそれ言ってください!」


 今度は同じ方向へ力を掛けた。


 椅子が壁際へ流れる。


 倉橋が身体を滑らせながら先回りし、背もたれと壁の間へ腕を入れた。


 止まった。


 俺も手すりへ体重を預けたまま、椅子の脚を押さえる。


「大丈夫ですか?」


 倉橋が女性へ聞く。


「び、びっくりしたけど……」


「すみません、本当に」


 倉橋の声にさっきまでの強さがない。


 自分の判断で動いた分、失敗した時の顔もちゃんとするらしい。


「東側へ動かします!」


 施設職員が二人走ってきた。


 床の状態を見て、壁際を使って女性を引き継ぐ。


 俺たちは離れた。


「鳴海さん」


 倉橋が低い声で言う。


「何」


「さっき右って言ったの、何見てたんですか」


「高津と椅子」


「患者見えてなかった?」


「見えてなかった」


「……それ、結構まずくないですか」


「まずいな」


 認める。


 倉橋が何か言おうとしたところで、高津が大声を上げた。


「お前ら動くな!」


 今度はこっちを見ている。


 職員の首元にカッターを戻す。


「能力使うな! 来たらこいつ切るぞ!」


 俺は止まった。


 倉橋も止まる。


 俺たちが何者なのかは知らなくても、さっきの動きを見れば能力者だとは分かる。


「分かった。行かない」


 俺が言う。


「鳴海さん」


 倉橋が小声で呼ぶ。


「何」


「今、相手に合わせなくても」


「人質いる」


「そうですけど」


「今は行かない」


 倉橋は口を閉じた。


 納得したかは分からない。


 高津が職員を押してサービス扉へ進む。


「開けろ」


「この先、警察が――」


「いいから開けろ!」


「開けても一般ロビーには直接出られません!」


「知るか! 開けろ!」


 職員が操作盤へ手を伸ばす。


 その後ろで、もう一人の男が灰色のケースを押してついていく。


「高津さん」


「何だ!」


「俺、もう無理です」


「歩けてるだろ!」


「そういう話じゃ――」


「じゃあ置いてけ! ケースだけこっち寄越せ!」


 男の顔が固まった。


 あ。


 ここ、割れるな。


 でも今じゃない。


 警察も警備もいる。


 俺たちが間へ入る必要はない。


 サービス扉が開く。


 高津、人質、ケース。


 後ろの男。


 四人が向こうへ消える。


 扉は完全には閉まらず、施設職員が遠隔で開放状態を維持した。


 追跡のためじゃない。


 人質を挟まないためだろう。


「患者移送ベイ側、警察と警備が対応します!」


 無線を持った職員が叫ぶ。


「観察区画は引き続き東側へ退避してください!」


 白瀬が戻ってきた。


「二人とも」


 怒っている。


 たぶん。


「怪我は?」


「ない」


「私はないです」


「能力は?」


 俺と倉橋が一瞬顔を見合わせる。


「俺は今は使ってない」


「今は、って何ですか」


「さっきの一回だけ」


「倉橋さん」


「私はさっき扉止めた時だけです」


「床で滑ったのは?」


「普通に滑りました」


「普通に滑るのも怪我するんですよ」


「はい」


 倉橋の返事が小さい。


 白瀬が二人の足元を見る。


「とにかく一度戻ります。警察が来ています。ここからは――」


 言葉の途中で、視界の端が急にうるさくなった。


 白瀬の白衣の皺。


 倉橋の髪。


 天井灯の反射。


 壁の案内表示。


 非常灯。


 床の小さな傷。


 廊下の向こうで動く人。


 全部が、同じ強さで目に入ってくる。


「……あ」


 俺は目を閉じた。


「鳴海さん?」


 白瀬の声。


「来た」


「何が」


「視覚」


 目を開ける。


 見える。


 ちゃんと見える。


 白瀬の顔も、倉橋の顔も、時計の針も。


 ただ、どれを見なくていいのかが分からない。


 時計を見る。


 十七時を少し回っていた。


 予定より、たぶん誤差の範囲。


「鳴海さん」


 倉橋が俺の前へ半歩出た。


「見えてます?」


「見えてる」


「なら――」


「見えすぎてる」


 答えると、倉橋の眉が寄った。


 廊下の向こうで、また男の怒鳴り声が響いた。


 俺はそちらへ顔を向けた。


 声の方向は分かる。


 人が動いているのも分かる。


 でも、その全部が一度に目へ入ってくる。


 ここから先は、さっきまでと同じようには動けない。

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