第3話 見えているのに、足りなくなる
男が職員の首元へ突きつけているのは、刃渡りの短いカッターナイフだった。
大げさな武器じゃない。
たぶん、仕事で使っていたものだ。
だから余計に嫌だった。
ここへ来る時から人を傷つけるつもりだった奴じゃない。逃げられなくなって、今ある物を使った。そういう相手は、自分でも次に何をするか決めきれていない。
「開けろって言ってるだろ! そっちの扉!」
男が怒鳴る。
制服ではなく、紺色の作業着。胸元の会社名は、人質になっている職員の肩に隠れて読めない。
片腕で職員を抱え込み、もう片方の手にカッター。
足元には、さっき廊下を滑ってきたものと同型の灰色のケースがあった。
その少し後ろに、もう一人いる。
同じような作業着の若い男。
こっちは誰も捕まえていない。
「高津さん、もういいって」
「うるせえ!」
「ケース置いて、西から戻った方が――」
「閉められてんだよ!」
名前が一つ分かった。
人質を取っている方が高津。
もう一人は、高津の言葉に顔をしかめた。
その足が、床の上でわずかに滑る。
あいつか。
さっきから床をおかしくしている能力者。
「患者さん、奥の部屋へ移します」
白瀬が低い声で言った。
俺たちにではなく、近くの職員へだ。
「歩ける方から東側へ。車椅子は滑っている場所を避けてください。さっきの区画はまだ床面が安定してません」
「分かりました」
職員が動く。
白瀬も一緒に患者のところへ行った。
こっちを振り返らない。
今は俺たちより、患者の方が優先だ。
当然だった。
倉橋がベッドの縁へ手をついて立つ。
「座ってろって言われてただろ」
「鳴海さんも立ってます」
「俺は見てるだけ」
「私もです」
「嘘つけ」
「そっちも」
言い返された。
さっき《最短路》を使ったばかりなのに、声はいつも通りだ。
ただ、姿勢を変えるたびに一度だけ足元を確認している。
本人も反動が増えたのは分かっている。
高津が人質の背中を押した。
「こっち来い!」
職員がよろめく。
「やめてください!」
「うるせえ! 扉開けろ! 外まで出せ!」
高津が指しているのは、患者移送用のサービス扉だった。
あそこを抜ければ、観察区画の裏から患者移送ベイへ出る。
その先が一般ロビーに繋がっている。
ただし、もう警察が来ているはずだ。
さっき職員同士の無線で、東側到着という言葉が聞こえた。
高津が知っているかは分からない。
「高津さん、そっちは無理だって」
後ろの男が言う。
「今ならまだ――」
「お前は黙ってろ!」
「いや、だから薬置けば――」
高津が振り返った。
一瞬だけ。
人質の首から刃が離れる。
倉橋の身体が前へ出た。
「待て」
俺は反射的に倉橋の腕を掴んだ。
「っ、何するんですか!」
「今じゃない」
「分かってます!」
「じゃあ何で出た」
「扉の横!」
倉橋が顎で示す。
見る。
人質になっている職員から三メートルほど離れた壁際に、別の患者がいた。
白瀬たちの誘導から漏れたらしい。高齢の女性が椅子に座ったまま、身動きできずにいる。
高津しか見ていなかった。
「……悪い」
「離してください」
手を離す。
倉橋が俺を睨んだ。
「勝手に止めないでください」
「今のは俺が悪かった」
「認めるの早いですね」
「間違えた時まで意地張る趣味ないから」
「その割に普段は意地張ってそうですけど」
今それを話している場合じゃない。
俺は椅子の女性を見る。
そこまでの床に、さっきほど明らかに滑っている部分はない。
ただ、高津たちのすぐ横を抜けることになる。
「俺が行く」
「私が行きます」
「またか」
「距離、私の方が近いです」
「能力使うなよ」
「使いません」
「ならいい」
倉橋が先に動いた。
俺も少し遅れて反対側へ回る。
高津はまだ職員へ扉を開けさせようとしている。
後ろの男はケースを持ち上げようとして、一度取り落とした。
「くそ……」
手の感覚も来てるのか。
灰色のケースを掴み直すが、今度は持ち上げず床を押した。
ケースがするりと滑る。
能力を使った。
でもさっきより動きが雑だ。
本人の足も半歩ずれた。
「高津さん、マジでもうやめましょう。俺、これ以上使えないって」
「知るかよ!」
高津は振り返らない。
仲間の反動より、自分が逃げる方が大事らしい。
あいつが悪人だから、というより、今は本当にそこしか見えていないんだろう。
倉橋が椅子の女性へ近づく。
「すみません。立てますか?」
女性が首を振った。
「じゃあ、椅子ごと動かします。少し揺れます」
倉橋が背もたれに手を掛ける。
その時、高津の後ろにいた男がこちらを見た。
「おい!」
まずい。
「何してんだ!」
男が手を床へついた。
「倉橋、離れろ!」
床が変わる。
見た目には何も変わらない。
でも倉橋の靴が横へ滑った。
「っ!」
椅子も動く。
座った女性ごと、高津の方へ滑り始めた。
倉橋が椅子を掴む。
止まらない。
俺は踏み込んだ。
今度は、さっきみたいに身体の位置を借りない。
一回使った分は後へ回してある。ここで重ねれば、今夜の自分が面倒になる。
滑るのが分かっているなら、壁を使えばいい。
手すりへ左手を掛ける。
右手はまだ力加減が怪しい。
握らない。
掌を押しつけて身体を止め、滑ってくる椅子の側面へ足を当てる。
「倉橋、そのまま!」
「分かってます!」
「右に逃がす!」
「そっち患者います!」
いた。
さっき移動した患者が一人、廊下の右側を職員に支えられて歩いている。
見落とした。
「左!」
「遅い!」
倉橋が椅子を引いた。
俺は押す。
方向が噛み合わず、椅子が一度回った。
「うわっ」
女性が声を上げる。
「すみません!」
倉橋が謝りながら身体を入れ直す。
このままだと高津側へ流れる。
「壁に当てる!」
「最初からそれ言ってください!」
今度は同じ方向へ力を掛けた。
椅子が壁際へ流れる。
倉橋が身体を滑らせながら先回りし、背もたれと壁の間へ腕を入れた。
止まった。
俺も手すりへ体重を預けたまま、椅子の脚を押さえる。
「大丈夫ですか?」
倉橋が女性へ聞く。
「び、びっくりしたけど……」
「すみません、本当に」
倉橋の声にさっきまでの強さがない。
自分の判断で動いた分、失敗した時の顔もちゃんとするらしい。
「東側へ動かします!」
施設職員が二人走ってきた。
床の状態を見て、壁際を使って女性を引き継ぐ。
俺たちは離れた。
「鳴海さん」
倉橋が低い声で言う。
「何」
「さっき右って言ったの、何見てたんですか」
「高津と椅子」
「患者見えてなかった?」
「見えてなかった」
「……それ、結構まずくないですか」
「まずいな」
認める。
倉橋が何か言おうとしたところで、高津が大声を上げた。
「お前ら動くな!」
今度はこっちを見ている。
職員の首元にカッターを戻す。
「能力使うな! 来たらこいつ切るぞ!」
俺は止まった。
倉橋も止まる。
俺たちが何者なのかは知らなくても、さっきの動きを見れば能力者だとは分かる。
「分かった。行かない」
俺が言う。
「鳴海さん」
倉橋が小声で呼ぶ。
「何」
「今、相手に合わせなくても」
「人質いる」
「そうですけど」
「今は行かない」
倉橋は口を閉じた。
納得したかは分からない。
高津が職員を押してサービス扉へ進む。
「開けろ」
「この先、警察が――」
「いいから開けろ!」
「開けても一般ロビーには直接出られません!」
「知るか! 開けろ!」
職員が操作盤へ手を伸ばす。
その後ろで、もう一人の男が灰色のケースを押してついていく。
「高津さん」
「何だ!」
「俺、もう無理です」
「歩けてるだろ!」
「そういう話じゃ――」
「じゃあ置いてけ! ケースだけこっち寄越せ!」
男の顔が固まった。
あ。
ここ、割れるな。
でも今じゃない。
警察も警備もいる。
俺たちが間へ入る必要はない。
サービス扉が開く。
高津、人質、ケース。
後ろの男。
四人が向こうへ消える。
扉は完全には閉まらず、施設職員が遠隔で開放状態を維持した。
追跡のためじゃない。
人質を挟まないためだろう。
「患者移送ベイ側、警察と警備が対応します!」
無線を持った職員が叫ぶ。
「観察区画は引き続き東側へ退避してください!」
白瀬が戻ってきた。
「二人とも」
怒っている。
たぶん。
「怪我は?」
「ない」
「私はないです」
「能力は?」
俺と倉橋が一瞬顔を見合わせる。
「俺は今は使ってない」
「今は、って何ですか」
「さっきの一回だけ」
「倉橋さん」
「私はさっき扉止めた時だけです」
「床で滑ったのは?」
「普通に滑りました」
「普通に滑るのも怪我するんですよ」
「はい」
倉橋の返事が小さい。
白瀬が二人の足元を見る。
「とにかく一度戻ります。警察が来ています。ここからは――」
言葉の途中で、視界の端が急にうるさくなった。
白瀬の白衣の皺。
倉橋の髪。
天井灯の反射。
壁の案内表示。
非常灯。
床の小さな傷。
廊下の向こうで動く人。
全部が、同じ強さで目に入ってくる。
「……あ」
俺は目を閉じた。
「鳴海さん?」
白瀬の声。
「来た」
「何が」
「視覚」
目を開ける。
見える。
ちゃんと見える。
白瀬の顔も、倉橋の顔も、時計の針も。
ただ、どれを見なくていいのかが分からない。
時計を見る。
十七時を少し回っていた。
予定より、たぶん誤差の範囲。
「鳴海さん」
倉橋が俺の前へ半歩出た。
「見えてます?」
「見えてる」
「なら――」
「見えすぎてる」
答えると、倉橋の眉が寄った。
廊下の向こうで、また男の怒鳴り声が響いた。
俺はそちらへ顔を向けた。
声の方向は分かる。
人が動いているのも分かる。
でも、その全部が一度に目へ入ってくる。
ここから先は、さっきまでと同じようには動けない。




