第2話 弱いと思っていた男
座っていろ、と言われてから三十秒。
別に記録を更新したかったわけじゃない。
灰色のケースが床を滑ってくる。その先には、足を滑らせて尻もちをついた職員と、歩行器につかまったまま動けずにいる老人。
考えている時間はなかった。
床へ右足を出す直前、俺は一度だけ靴底を見た。
職員が転んだ場所。ケースが減速せず滑っていること。ワックスでこんな動きにはならない。
なら、床そのものがおかしい。
「そこ、踏まないで!」
白瀬の声が飛ぶ。
遅い。
俺は左へ踏み出した。
普段なら、滑る床へ足を置けば身体が遅れて反応する。傾いてから姿勢を戻す。今はその順番を少しだけ前へ詰める。
足裏。
膝。
腰。
自分の重心がどこへ逃げようとしているかだけを拾う。
後に回す。
今は転ばなければいい。
靴底が横へ流れた。
分かっていたので、逆らわない。滑った分だけ膝を落とし、身体を低くしたまま前へ出る。
老人の歩行器に左手を掛けた。
「手、離さないでください」
「え、あ――」
「そのままでいいです」
右手は使わない。今の右手で歩行器を握れば、加減を間違える。
老人ごと歩行器を横へ引く。
ケースが俺の背中すれすれを抜けた。
硬いものが壁にぶつかる。
ドン、と腹に響く音。
「鳴海さん!」
「平気」
「聞いてません!」
白瀬の声が怖い。
返事をする前に、俺は老人の足元を見た。
「どこか痛めました?」
「いや……大丈夫、だと思う」
「足首動かせます?」
老人が片足ずつ動かす。
白瀬がもうこっちへ来ていた。
「代わります」
「はい」
俺が一歩下がると、さっきまで老人のいた辺りへ視線を向けていた倉橋と目が合った。
露骨に変な顔をしている。
「何?」
「……今、能力使いました?」
「ちょっと」
「ちょっとって」
「倉橋さん、今はいいから」
白瀬が老人の膝へ手を添えながら遮る。
「倉橋さんは廊下に出ないで。鳴海さんもそこ」
「はい」
「返事だけはいいですね」
俺は素直に壁際へ戻った。
今度こそ座ろうと思ったところで、壁にぶつかったケースが目に入る。
業務用の搬送ケースらしい。灰色の樹脂製で、大人一人なら持てなくはない大きさだが、あんな速度で床を滑る重量ではない。
しかも車輪はない。
床へ直接置かれている。
廊下の先では、職員が転倒した場所を避けて別の患者を移動させ始めていた。
「西側通れません! 観察三と四、東へお願いします!」
「歩行補助必要な方から!」
「車椅子二台足りない!」
さっきまで静かだった区画が急に慌ただしくなる。
誰もパニックにはなっていない。
だから俺も動かない。
少なくとも、今は。
倉橋がベッドへ座り直しながら、まだ俺を見ていた。
「何」
「いや」
「二回目」
「さっきまで右手でスマホもまともに触れてなかったですよね」
「右手は今もまともじゃない」
「でも今の動き」
「脚と右手は別だろ」
「それはそうですけど……」
倉橋は納得していないらしい。
視線が俺の足へ落ちる。
「滑るって分かってたんですか?」
「職員が先に転んでたから」
「それだけで?」
「ケースも変だったし」
「じゃなくて」
倉橋が立ち上がりかけて、白瀬の視線に気づいたのか座り直した。
「普通、分かっててもあんな踏み方しませんよ」
「転ばなきゃいい」
「その転ばないができないって話してるんですけど」
「そこは後で払うから」
言ってから、倉橋の眉が動いた。
「……ああ」
初めて何かが繋がった顔だった。
「そういう使い方なんだ」
「どういうの想像してた?」
「反動を後に回すだけかと」
「だいたい合ってる」
「合ってないでしょ」
「後で来るのは同じだよ」
「その『後で』の間、普通ならできない動きしてるじゃないですか」
そこまで言われると、説明が面倒になる。
俺は椅子へ座った。
「白瀬さん」
「自分で説明してください」
老人の足首を確認しながら即答された。
「忙しそうだから」
「私を説明係にしないでください」
倉橋が少し笑った。
「鳴海さんって、思ってたより面倒くさい人ですね」
「それ初対面に近い相手に言う?」
「医療室にいる回数だけは前から知ってます」
「最悪の知名度だな」
「でも」
倉橋が廊下の先を見る。
「弱いって意味ではなかったかも」
「別に弱いでいいよ」
「よくないです。評価間違ってたの私なので」
変なところで真面目だ。
その時、観察区画の扉付近で職員が声を上げた。
「すみません、こっち一人お願いします!」
見る。
サービス通路側から移動してきた患者らしい。若い男が壁際の手すりにつかまり、その隣で職員が車椅子を押している。
問題はその先だった。
防火扉が途中まで閉じている。
完全封鎖ではない。人が一人通れるくらいの隙間が残っている。
職員は患者を歩かせて先に通そうとしているが、男の脚がうまく出ていない。
「反動何ですか?」
倉橋が白瀬に聞く。
「下肢の力覚低下。歩けますけど、段差と方向転換に補助が必要です」
防火扉の向こうから、また金属音がした。
施設職員が振り返る。
「急いでください! 西側サービス通路、まだ確保できてません!」
患者が焦ったのか、手すりから手を離した。
身体が傾く。
職員が支える。
車椅子が邪魔で扉を抜けられない。
「車椅子置いて、人だけ先」
俺が言う。
職員も同じ判断をしたらしく、ロックを掛けようとする。
その瞬間。
車椅子が横へ滑った。
「っ!」
まただ。
床の摩擦が落ちている。
車椅子が扉の隙間へ斜めに入り込み、半分塞いだ。
患者と職員がこちら側に取り残される。
防火扉がゆっくり閉じ始めた。
「何で閉まる!?」
「区画制御です!」
向こう側の職員が叫ぶ。
「止めます! でも操作盤まで――」
距離がある。
俺は立った。
「鳴海さん」
白瀬の声。
今度は止める声ではなかった。
俺を見る。
右手はまだ使いにくい。
さっき脚の制御を少し借りた。
もう一度やれないわけじゃない。
患者まで十メートルもない。
俺なら間に合う。
「私が行きます」
倉橋が言った。
「は?」
「私の方が近い」
「観察中だろ」
「鳴海さんも」
「俺は――」
「自分だけ例外みたいに言わないでください」
倉橋はもう立っていた。
白瀬が名前を呼ぶ。
「倉橋さん」
「扉だけです」
「今の歩行、引っ掛かり残ってます」
「分かってます」
「分かってるなら――」
「でも今、あそこまでなら私の方が速い」
倉橋の目が防火扉へ向く。
患者。
車椅子。
操作盤。
それを一度見ただけで、迷いが消えた。
たぶん、決めた。
俺とは使い方が違う。
「白瀬さん」
「許可を取ろうとしないでください。私が戦術判断する立場じゃないです」
白瀬は眉間へしわを寄せたまま、倉橋の足元を見る。
「ただ、今の状態で高負荷を重ねたら観察延長です。明日の勤務も外れる可能性あります」
「了解」
「了解じゃなくて――」
倉橋が床を蹴った。
速い。
いや、速度そのものじゃない。
一歩目から動きに無駄がない。
閉じていく扉。
滑る床。
斜めになった車椅子。
全部を避けながら、一度も足が迷わない。
最短距離ではない。
車椅子を大きく回り込み、一度壁に手をつき、身体の向きを変えてから操作盤へ入る。
今の床で一直線に行けば滑る。
だから必要な動きだけを選んでいる。
「それが《最短路》か」
思わず声が出た。
倉橋が操作盤へ手を伸ばす。
一瞬、右手と左手が同時に動いた。
ほんのわずか。
でも俺には見えた。
反動が残っている。
それでも右手で非常停止を押した。
防火扉が止まる。
「今!」
俺は患者の方へ走った。
今度は能力を使わない。
床の滑る場所は分かっている。避ければいい。
職員と二人で車椅子を起こし、患者を扉の向こうへ通す。
最後に俺が抜けた直後、向こう側から施設職員が手動固定を掛けた。
「助かった……」
患者が壁へ寄りかかる。
「白瀬さん来ます。座れそうです?」
「はい」
「じゃあ無理に歩かないで」
振り返る。
倉橋は操作盤の前に立ったままだった。
「倉橋?」
「……ちょっと待ってください」
声は普通。
顔色も悪くない。
でも右へ戻ろうとしているのに、右足と左足がほとんど同時に動こうとして、身体が一度止まった。
倉橋は舌打ちした。
「増えたな」
「見れば分かります」
「戻れる?」
「戻ります」
「聞き方変える。手伝いいる?」
倉橋が俺を見る。
一瞬だけ考えてから、
「……今は、いらないです」
「分かった」
無理に腕を取る理由はない。
倉橋は壁へ片手をつき、一歩ずつ戻ってくる。
白瀬は途中まで迎えに行ったが、勝手に支えなかった。
「まず右足」
「分かってます」
「じゃあ次」
「今やろうとしてます」
「怒らない」
「怒ってないです」
「その速度で喋る時はだいたい怒ってます」
「白瀬さんまでそれ言うんですか?」
俺は少し笑った。
倉橋がこっちを睨む。
「鳴海さんは笑わないでください」
「俺何もしてないけど」
「さっき『弱いでいい』って言ってた人が、患者助けるために普通に能力使ってるのが一番腹立ちます」
「倉橋も使っただろ」
「私は勤務管理できます」
「今観察延びたけど」
「……それはそれ」
「同じじゃん」
「同じにしないでください」
白瀬が俺たちの間へ入った。
「喧嘩するなら座ってからにしてください」
「喧嘩じゃないです」
「俺も違うと思う」
「じゃあ静かにしてください」
二人まとめて怒られた。
廊下の時計を見る。
十六時三十八分。
視覚の支払いまでは、まだ少しある。
施設の奥から、今度は人の怒鳴り声が響いた。
「開けろ! こっちを開けろって言ってるだろ!」
笑っていた倉橋の顔から表情が消えた。
白瀬も立ち上がる。
廊下の向こうを、職員が一人こちらへ走ってくる。
「患者さん、奥へ! 全員、扉から離れてください!」
そのさらに後ろ。
角を曲がった先で、男が誰かの首元へ腕を回しているのが見えた。
手には、小さな銀色の刃。
さっきまでの警報とは、空気が変わった。
俺は立ち上がった。
今度は白瀬に言われる前に、ちゃんと止まった。
まだ、俺たちが行く場面じゃない。
少なくとも――今は。




