第1話 勝った後の俺は、だいたい弱い
落ちかけた鉄骨の下へ入る時、人は普通、もう少し考えるらしい。
俺は考える前に、右足を踏み込んだ。
「鳴海、待て!」
背後で早瀬さんが何か言ったが、待ったら間に合わない。
商業ビル裏の搬入口。暴走した異能で荷役用の鉄骨フレームが傾き、その下に作業員が一人取り残されている。フレームは完全には落ちていない。左側の支柱が潰れ、残った固定具が悲鳴みたいな金属音を立てていた。
あと数秒。
足場に散ったボルトと破片。傾いた支柱。半分抜けた固定具。作業員の右足が逃げられる隙間。
一度見て、息を吐く。
視界の中で、必要なものだけが急に前へ出た。
揺れている箇所と、次に落ちる箇所。踏んでいい場所と、踏めば崩れる場所。その区別だけが、普段よりずっと速い。
後で払う。
夕方。今日はセンターに寄る予定がある。なら、この程度はそこへ送る。
見えた足場を訓練どおりに抜け、しゃがみ込んでいた作業員の腕を取った。
「立てます?」
「む、無理、足が――」
「じゃあこっちだけ使って。痛い方はつかないで」
返事を待つ間にも、頭上で金属が軋んだ。
間に合わない。
左腕を鉄骨へ添える。
鉄骨を持ち上げたわけじゃない。そんなことをしたら、俺の肩が先に壊れる。
落ちる向きをほんの少し変えただけだ。左足を支柱の根元へ当て、腰を入れ、腕で押すというより身体全体で重さを逃がす。訓練で何度もやった動きに、今だけ普段より速い視覚処理と出力を重ねた。
それでも、肘の奥が嫌な音を立てた気がした。
気のせいであってほしい。
「足、挟まってないです。感覚あります?」
「ある、けど……」
「じゃあ立てる。早瀬さん、右側お願いします」
「お前が仕切るな。右は持つ!」
怒鳴りながら、早瀬さんは俺よりずっと丁寧に作業員の脇へ肩を入れた。こういう時、能力より普通の救助訓練の方が役に立つことは多い。
俺が数秒だけ鉄骨の傾きを殺し、早瀬さんが人を出す。
俺一人なら、たぶん助けるまでにもっと身体を借りていた。
筋肉が出せる力を、身体が普段止めているところまで一瞬だけ引き上げる。
痛い。
いや、これは反動じゃない。普通に筋肉が嫌がっているだけだ。
それでも数秒あれば十分だった。
「早瀬さん!」
「分かってる!」
作業員の身体が俺の横を抜けた。早瀬さんが安全圏へ引きずり出したのを確認して、俺も鉄骨から手を離す。
直後、さっきまで俺の腕があった場所へフレームが落ちた。
轟音。埃。遅れて心臓が速くなる。
「お前さあ」
早瀬圭吾さんが、作業員を別の隊員へ預けながらこっちを見た。
「今、何個借りた?」
「二つ」
「その答え、医療にも同じこと言えよ」
「言いますよ」
「俺には信用がない」
「それは普段の行いですね」
「自覚あるなら直せ」
返す言葉がなかったので、落ちたフレームを見た。
助かった。
なら、今はそれでいい。
センターへ着いた時、早瀬さんは受付まで付いてこなかった。
『報告、片桐さんに上げとく。お前はちゃんと全部言え』
それだけ言って別の現場へ戻った。
俺の救助が終わっても、早瀬さんの勤務は終わらない。
そういうところまで含めると、俺の能力はたぶん世間が思うほど便利じゃない。
――と思っていた二時間半後。
「強く握りすぎです」
白瀬由良が言った。
俺の右手の中で、柔らかい検査用ボールが変形している。
「弱く」
「やってる」
「やってません。今の半分」
半分にしたつもりで握る。
「まだ強い」
「これ以上弱くしたら落とすぞ」
「じゃあ落としてください」
「検査ってそういうものだっけ」
「落とすか、潰すかを見る検査になりました」
白瀬は俺の手からボールを回収し、端末へ何か入力した。
地域反動医療センターの短期観察区画。壁も床も白っぽく、医療施設らしく余計なものが少ない。窓の向こうでは夕方の光が少しずつ薄くなっていた。
昼に鉄骨を押さえた時の上肢出力。その支払いが、今来ている。
力がないわけじゃない。
むしろ余計に出る。
ペットボトルを持てば強く握りすぎるし、スマホを片手で操作しようとすると指先が思った場所を通り過ぎる。強い物を持つより、紙コップを潰さず持つ方が難しい。
「左は?」
「普通」
「右手でスマホ、ロック解除できます?」
「できる」
「やってください」
「信用ないな」
「ありますよ。鳴海さんが『できる』って言ったこと以外は」
「そこ一番大事じゃない?」
ポケットからスマホを出す。
親指が数字を一つ飛び越えた。
二回目も失敗。
三回目でようやく開く。
白瀬は何も言わず、端末へ一行追加した。
「何書いた?」
「本人申告と実測に差あり」
「悪意あるな」
「事実です」
白瀬由良。俺より二つ上の二十二歳。
ここで何度も顔を合わせている医療スタッフだ。俺の能力を全部知っているわけではないが、俺が『大丈夫』と言った時にどれくらい信用すべきかについては、たぶん俺より詳しい。
「それと、視覚の方。予定は?」
「十七時すぎ」
「幅は?」
「五分くらい。長くても十分」
「今、十六時前です。帰りは?」
「電車」
「始まる前に帰るのは無理ですね」
「だから終わるまでいる」
「今日は素直」
「毎回反抗してるみたいに言うな」
「してません。毎回じゃないです」
否定の仕方がおかしい。
白瀬が次の検査器具を取ろうとしたところで、隣のベッドから小さく笑う声がした。
見ると、女がこっちを見ていた。
黒に近い焦げ茶の髪を高い位置でまとめ、機構のインナーシャツ姿でベッドへ腰掛けている。顔は知っている。同じ拠点の現場対応員だ。
倉橋千景。
別チームなので、まともに話したことはない。
「すみません。聞くつもりなかったんですけど」
「全部聞いてた顔ですけど」
「カーテン閉めてないから」
「白瀬さん」
「機能確認だけなので」
白瀬は悪びれない。
倉橋が俺の右手を見た。
「鳴海さんって、本当に毎回こんな感じなんですね」
「どんな評判なんだ、俺」
「医務室にいる」
「それは事実だな」
「短い現場だと強いって聞きますけど、その後の稼働率が悪いって」
本人を前にして言うことではない気もする。
でも、嫌味の色は薄かった。ただ仕事の数字を確認するみたいな口調だ。
「倉橋さん」
白瀬が今度は千景へ向いた。
「立って、あそこまで歩いてください」
「もう平気ですって」
「平気かどうかは今から見ます」
「……はい」
倉橋が立つ。
一歩目は普通だった。
二歩目で、右へ進もうとした身体がほんの一瞬だけ左へ揺れた。
倉橋自身が一番先に気づいたらしい。眉が寄る。
「今のは床」
「床は動いてません」
「知ってます」
「じゃあもう一回」
白瀬は容赦がない。
「勤務に影響するほどじゃないです」
「それを決めるための観察です」
「明日の訓練、外されたくないんですけど」
「それは検査結果を見てから」
倉橋が露骨に嫌そうな顔をする。
俺は思わず言った。
「倉橋でもそういう顔するんだな」
「どういう意味ですか?」
「現場評価いい人って、もっと全部ちゃんとしてるのかと」
「鳴海さんにだけは言われたくないんですけど」
「それはそう」
倉橋が吹き出した。
笑うと、現場ですれ違う時よりずいぶん年相応に見えた。
「はい、雑談終わり」
白瀬が間に入る。
「鳴海さんは次、光刺激。倉橋さんは歩行もう一回」
「白瀬さん、今日何時まで?」
「勤務の話ですか?」
「終わったら映画とか」
「ありますけど」
「あるんだ」
「ありますよ。何だと思ってるんですか」
「ここに住んでる人」
「次の検査、増やしますよ」
冗談なのか本気なのか分からない声だったので、黙って検査用のゴーグルを受け取った。
その時。
廊下の向こうで、短い電子音が鳴った。
一回。
二回。
三回目だけ少し長い。
白瀬の顔から、さっきまでの呆れが消えた。
天井スピーカーから落ち着いた声が流れる。
『職員各位。西側物流区画にて照合異常を確認。現在、当該区画を閉鎖しています。患者の皆様は職員の案内があるまで――』
倉橋がベッドから立とうとする。
「座っててください」
白瀬が即座に止めた。
「いや、今の――」
「警備案件です。二人とも観察中」
俺も廊下を見る。
まだ誰も走っていない。
職員が一人、端末を見ながら扉を閉めた。別のスタッフが患者へ説明を始める。
ちゃんと動いている。
なら、俺たちの出番じゃない。
「鳴海さん」
「分かってる。座ってる」
「珍しい」
「今日の白瀬さん、失礼じゃない?」
言った直後だった。
廊下の奥から、何かが壁にぶつかる鈍い音がした。
次いで、金属の擦れる音。
白瀬が扉へ視線を向ける。
観察区画の前を横切ろうとした職員が、急に足を滑らせた。
「危な――」
その向こうから、灰色の荷物ケースが滑ってきた。
速い。
台車じゃない。
床を、直接。
職員のすぐ後ろには、歩行器を使った患者がいる。
白瀬が動くより先に、俺は立っていた。
「鳴海さん!」
右手はまだまともに力加減ができない。
視覚の請求は、まだ来ていない。
脚は使える。
身体の位置も、まだ売れる。
――座ってろと言われてから、三十秒も経っていなかった。




