第18話 強かった人は、午後いない
反動が来るまでの時間は、別に無敵時間じゃない。
普通に疲れるし、腹も減る。
昼飯のあと眠くもなる。
ただ、自分の足がどこにあるかくらいは、まだ普通に分かる。
十六時二十二分までは。
「……来たな」
執務席から立ち上がった瞬間、右足が予想より近いところにあった。
足自体はちゃんと床についている。
見れば何もおかしくない。
でも頭の中では、もう三センチほど右へ出しているつもりだった。
その差のまま立ち上がったせいで、膝が机の角に軽く当たる。
「痛っ」
向かいの早瀬さんが顔を上げた。
「始まった?」
「多分」
「多分って」
「今の一回だけだと、ただ俺が机にぶつかった可能性もある」
「それは普段からありそうだな」
「ないよ」
言いながら、右手で業務端末を取る。
手は問題ない。
今日の東四区で借りたのは、身体の位置と重心調整。
十一時十九分。
支払い開始は十六時半前後に置いた。
二十四時間先まで送ることもできるが、明日の朝まで残る方が仕事上は面倒だ。今日の夕方に払って、夜のうちにある程度戻す。
そう決めたのは自分だった。
端末へ反動開始を入力する。
『16:22 支払開始の可能性』
「医療行ってこい」
早瀬さんが言った。
「あと八分くらい様子見ても」
「始まる予定が十六時半なんだろ」
「前後する」
「前に来てるじゃん」
「誤差」
「だから行け」
正論だった。
「今の仕事終わったら」
「何やってんの」
「報告書」
「三行増やすために転ぶな」
「転ばない」
椅子へ座ろうとして、思っていた位置より座面が少し後ろにあった。
腰だけ先に落ちかける。
机へ手をついて止まった。
早瀬さんが何も言わず俺を見る。
「……行ってきます」
「最初からそうしろ」
地域反動医療センターまでは、拠点内の連絡通路で繋がっている。
数分歩くだけ。
その数分が今日は少し面倒だった。
足が動かないわけではない。
右へ行こうとして左へ出るわけでもない。
自分では廊下の中央を歩いているつもりなのに、気づくと少し壁側へ寄っている。
視覚で補正すれば歩ける。
だから余計に、普通に歩けているように見える。
「鳴海さん」
受付を通ったところで声を掛けられた。
白瀬だった。
「来ました?」
「来た」
「何時から?」
「十六時二十二分くらい」
「予定より少し早いですね」
「誤差」
「その言葉、便利に使ってません?」
「本当に誤差だから」
「それは記録見れば分かります」
白瀬が端末を開く。
「今日、何を使いました?」
「身体位置と運動制御。十一時十九分。短時間」
「追加使用は?」
「なし」
「怪我」
「なし」
「通常疲労」
「ちょっと脚重い」
「それは普通の疲労?」
「多分」
「多分多いですね、今日」
仕方ない。
反動と普通の疲れは、本人でも境目が曖昧な時がある。
「まず歩行見ます。あそこまで」
「さっき歩いてきたけど」
「それは私が見てないので」
壁際に示された線まで歩く。
一歩。
二歩。
三歩目で、右足を想定より内側へ置いた。
転ばない。
ただ次の左足を出す前に、一拍修正がいる。
「止まって」
白瀬に言われる。
「その場で目閉じられます?」
「閉じるだけなら」
「両足の間隔、肩幅くらいにしてください」
目を閉じる。
右足を外へ。
これくらい。
「開けて」
見る。
右足は思ったより外へ出ていない。
「中度までは行ってないですね」
「じゃあ戻れる?」
「現場勤務へ?」
「席」
「聞き方が悪い」
「鳴海さんなので先に確認しました」
信用がない。
白瀬が記録を入れる。
「内勤なら可能。ただし階段を急いで移動するような業務は避けてください。現場出動は外します」
「もう勤務終わるまで二時間もないけど」
「二時間あります」
「何も起きないかもしれない」
「起きても行かないでください」
「分かってる」
白瀬が顔を上げた。
「本当に?」
「同じ機能払ってるから、今は借り直せない」
「そこまで分かってるならいいです」
「他なら使えるけど」
「今それ言う必要ありました?」
「事実として」
「私も事実として言いますけど、現在の身体位置感覚が信用できない状態で別機能を上げても、転倒とか衝突の危険は普通に残ります」
「はい」
「素直」
「最近言われる」
「珍しいからじゃないですか」
少し腹が立つ。
検査を終え、内勤制限の更新が業務端末へ飛ぶ。
『現場出動不可』
『内勤可』
『十八時再評価』
「十八時なら白瀬さんまだいる?」
「今日は十八時半までです」
「じゃあまた」
「担当が私とは限りませんよ」
「誰でもいいよ」
「それはそれで何か腹立ちますね」
「どうしろっていうの」
答えはなかった。
拠点へ戻る途中、業務端末が震えた。
出動通知。
反射的に開く。
『臨海工業地区・東四区』
『搬送用昇降設備 安全停止』
『作業員一名 上部点検足場に取り残し』
『負傷報告なし』
『能力使用作業再開区画のため現場確認要請』
「……また東四区」
通知の下に、割り当て班が表示される。
俺の名前はない。
早瀬さん。
別チーム二名。
倉橋千景。
そこまで見て端末を閉じる。
自分が外れているのは分かっていた。
分かっていたけど、通知を見ると一回くらい考える。
今なら歩ける。
会話もできる。
現場まで車で二十分。
着いてから必要な機能が別なら、使える可能性もある。
そんな計算をしている間に、追加通知が来た。
『出動班確定』
終わった。
俺は連絡通路を歩いて戻った。
「見た?」
早瀬さんが装備を持って出てくる。
「東四区」
「うん」
「俺、外れてる」
「知ってる。だから呼んでない」
「別に行くって言ってないけど」
「顔」
「早瀬さんまでそれやめない?」
「午前の支払い来てるんだろ」
「来てる」
「じゃあ内勤してろ」
「分かってる」
「報告書終わらせといて」
「それ俺の?」
「俺の昨日分も」
「何で」
「今日お前の代わりに行く」
「それは別でしょ」
「貸し一個」
「勝手に増やすな」
早瀬さんは笑って出ていった。
机へ戻る。
いつもより椅子の位置を目で確認してから座る。
東四区の状況は、管制画面に最低限だけ出ていた。
昇降設備が安全停止。
作業員一名が高さ六メートルほどの点検足場へ取り残されている。
転落危険はなし。
消防も到着予定。
急いで俺が行かなければ死ぬ人はいない。
だったら今の俺が行く理由はない。
理屈は簡単だった。
十五分ほどして、
『取り残し作業員 地上移送完了』
と更新された。
早い。
能力使用の表示もない。
たぶん普通に救助できたらしい。
「何だ」
思わず口に出た。
隣の席にいた宮野さんが振り返る。
「何が?」
「いや。何でもないです」
「現場?」
「はい」
「普通に終わったみたいだね」
「みたいですね」
「残念?」
「違うって」
「ならいいけど」
宮野さんは自分の画面へ戻った。
俺も報告書へ戻る。
右足の位置が気になるせいで、座っているだけなのに何度か足元を見る。
十七時半を過ぎた頃、反動は少し強くなった。
机の下で足を組もうとして、右足が左膝の手前を空振りする。
誰も見ていないことを確認してから、何事もなかったふりをした。
十八時過ぎ。
早瀬さんたちが戻ってきた。
「お疲れ」
「おう」
「どうだった?」
「昇降機の安全センサーが異常拾って止まっただけ。人は消防と一緒に下ろした」
「能力は?」
「誰も使ってない」
「倉橋も?」
「使ってない」
それならよかった。
早瀬さんが自分の席へ荷物を置く。
「あ、そうだ」
「何」
「緒方さん、お前のこと聞いてたぞ」
手が止まった。
「何て?」
「『午前にいた鳴海さんは今日は来ないんですか』って」
「何で俺」
「さあ。午前の事故で見てたからじゃねえの」
「早瀬さん何て答えた?」
「今は出動対象外って」
「それだけ?」
「それ以上言う必要ないだろ」
「まあ」
早瀬さんは自分の端末を開く。
「そしたら『午前は普通に動いてましたよね』って言うから、能力使った後はそういうこともあるって話だけした」
そこまでは緒方さんも知っている。
午前中、自分で俺に聞いていた。
「何か気になった?」
「別に」
「なら報告書手伝え」
「何でそこに戻るんだよ」
「貸し一個」
「認めてない」
早瀬さんの報告書は手伝わなかった。
十八時の再評価では、まだ現場復帰不可。
ただ、家へ帰る程度なら問題なし。
今日の反動は夜にはかなり落ちる見込みだった。
拠点を出る前、東四区の案件記録を一度だけ見た。
十一時十九分。
俺が能力を使った。
十六時二十二分。
支払いが始まった。
十六時三十七分。
東四区から別の要請。
その時、俺は行かなかった。
別の人たちが行って、能力を使わず終わらせた。
それだけの一日だった。
緒方さんがその並びをどう見たのかは、俺には分からなかった。




