第九十六話 華の贖罪
紫季は立ち尽くしていた。
眼前は——血に染まった畳。
動かない明里。
泣き叫ぶ明典。
「…………」
紫季の手から小刀が落ちる。
——カラン——
乾いた音だけが響く。
夢であればよかった。
頬を伝う涙も。
指先に残る血の温度も。
すべてが現実だった。
「……道舟」
「母上……」
紫季は涙を拭わない。
「聞きなさい」
その声だけは、須藤家の女だった。
「明典を連れて——ここを去りなさい」
「……え?」
「今すぐに」
紫季は明典を抱き上げる。
「おぎゃぁぁぁっ!!」
「…………」
その小さな顔を見つめる。
——スッ——
道舟へ託す。
「母上……何を……」
「典膳が来ます」
道舟の顔が強張る。
「もう、すぐそこまで」
——ドクン——
空気が震える。
遠くから何かが近付いてくる。
「帰るべき場所を」
紫季は目を閉じた。
「己を壊した根源を——焼き尽くすために」
「兄上が……」
「今のあの子に」
静かに首を振る。
「私たちの声は届きません」
紫季は血に染まった手を見る。
「修羅となった、あの子には」
「ならば母上も共にっ!!」
道舟が声を荒らげる。
「いいえ」
「母上っ!!」
「私は残ります」
迷いはなかった。
「…………」
道舟が言葉を失う。
紫季は明里を見る。
その胸には自らが突き立てた刃の痕。
「私が始めたのです」
震える指先を握る。
「典膳を病ませたのも」
「……」
「この家を狂わせたのも」
血が掌へ滲む。
「そして——明里を殺したのも」
「母上……」
「私です」
逃げることは許されない。
誰でもない。
「ならば」
紫季は背筋を伸ばす。
「終わらせるのも——私でなければなりません」
母として。
須藤の女として。
己が生んだ業の前に立つ。
「道舟」
「……はい」
「生きなさい」
道舟が顔を上げる。
「何十年でも」
「……」
「何百年でも」
紫季は明典を見る。
「いつの日か——須藤を再興しなさい」
「母上……」
「その血を」
——ザッ——
「その魂を」
道舟の胸に。
——トンッ——
血に濡れた手を置く。
「濁らせることなく、未来へ繋ぎなさい」
道舟の唇が震える。
「そのためなら」
紫季の瞳が鋭くなる。
「泥を啜りなさい」
「……っ」
握った拳が震える。
「誇りなど捨てなさい」
聲が強くなる。
「惨めでも」
「……」
「無様でも」
紫季は息子を見据える。
「生き抜きなさいっ!!」
「——っ!!」
道舟は唇を噛む。
——ツーッ——
血が顎を伝った。
腕の中で明典が泣いている。
「…………」
道舟は目を閉じる。
兄には勝てなかった。
才能も。
力も。
何一つ。
だが。
今、腕の中にあるもの。
「……承知」
ゆっくりと目を開く。
「いたしました」
その瞳から。
兄への劣等感は消えていた。
「必ず」
明典を強く抱く。
「私が——繋ぎます」
紫季は微笑んだ。
母として。
最後に一度だけ。
「……行きなさい」
「母上」
「行きなさいっ!!」
「——っ!!」
道舟は踵を返す。
——ダッ——
走る。
振り返らない。
振り返れば。
——もう進めない。
——タッ——
——タッ——
——タッ——
足音が遠ざかる。
紫季はただ聞いていた。
やがて——音が消える。
「…………」
血の海。
明里の亡骸。
紫季はその中央へ歩く。
——スッ——
静かに座した。
背筋を伸ばす。
「……これで」
小さく息を吐く。
「よいのでしょう?」
黒い影が揺れる。
『——お前の業』
懐かしい声。
気まぐれで拾った。
一匹の鬼。
『その果て』
「……」
低い声が静寂へ溶ける。
『俺が最後まで見届ける』
紫季は小さく笑った。
「……そう」
目を閉じる。
「ならば——よく見ておきなさい」
——パチッ——
「…………」
——パチパチッ——
廊下の蝋燭が揺れる。
空気が熱を帯びる。
愛した息子。
守ろうとした息子。
「……典膳」
紫季は目を開く。
逃げない。
須藤家の女として。
母として。
己が生んだ業を迎える。
裁きの足音は——
すぐそこまで迫っていた。
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