第九十五話 紫霧の対価
須藤の屋敷は静かだった。
陽光は遮られ、冷たい空気が廊下に淀む。
屋敷そのものが息を止めていた。
「……明里」
紫季が微笑む。
「そんなに怯えなくてもよいではありませんか」
「……」
腕の中。幼い明典を強く抱きしめる。
「私はただ」
——スッ——
紫季が一歩近付く。
「道舟と明典の顔を見に来ただけですよ」
「……お義母様」
声が違う。
遠い。
何もない場所から聞こえてくるような声。
その瞳は——
濁った紫。
——フワッ——
甘い香りが漂う。
藤の華の匂い。
「……っ」
明里の指先が震える。
知っている人のはずだった。
優しく笑う人だった。
自分を慈しんでくれた。
なのに——
目の前にいるものを。
身体が拒絶していた。
「お義母……様……?」
「はい?」
紫季が首を傾げる。
——ニコッ——
笑う。
「ふ……」
明典の顔が歪む。
「ふぇ……」
「明典?」
「ふぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」
赤子の泣き声が屋敷を貫いた。
「大丈夫っ……大丈夫よ、明典……!」
明里は我が子を抱き締める。
「大丈夫だから……!」
「…………」
紫季は——ただ見ていた。
部屋の隅。
「……」
道舟が拳を握る。
——ジワッ——
背中を嫌な汗が伝う。
母がおかしい。
空気がおかしい。
明典の泣き声が——
警鐘のように響いている。
(……何も起きるな)
——ギュッ——
拳に力が入る。
(頼む……)
紫季を見る。
(ただの……気のせいであってくれ……)
祈ることしか出来なかった。
——ズアァァァァッ!!!——
「——っ!?」
遠くで重い雲が引き裂かれる。
朱の閃光が天を貫いた。
『ぐぎゃあああぁぁぁっ!!』
「——ぁ——」
紫季の頭の中。
鐘鬼の断末魔が響く。
——パキッ——
何かが割れた。
濁った紫の瞳が揺れる。
——スゥゥッ——
霧が晴れていく。
「……ぁ……?」
音が戻る。
「ふぇっ!ふぇぇぇっ!!」
明典の泣き声。
「……」
紫季は瞬きをする。
右手。
何かを握っている。
温かい。
生温かい。
「……え?」
——ポタッ——
赤い雫が落ちる。
視線を下げる。
「…………」
小刀を自分の手が握っている。
その先。
「……あ……」
刃が——
明里の胸へ深く沈んでいた。
「…………お義母……様……」
「——っ」
鮮烈な朱。
床へ広がっていく。
「……明里?」
紫季の指が震える。
「……明里……?」
力が抜ける。
——ズルッ——
刃が抜ける。
「——明里っ!!」
——ドサッ——
崩れ落ちる身体。
「いや……」
紫季が膝をつく。
「違う……」
——ピチャ——
血に触れる。
「違う……違う……っ」
両手は朱に染まる。
「私……は……」
守りたかった。
ただ——
守りたかった。
「……あ……あぁ……」
平穏を。
家族を。
あの子たちの未来を。
それなのに。
自分の手が——
「母上っ!!!」
道舟の絶叫。
「何を——何をしているのですかっ!!」
「……道……舟……」
紫季が振り返る。
恐怖。
絶望。
理解出来ないという瞳。
「違う……私は……」
「ふぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」
明典が泣く。
「——っ!」
紫季の視線が赤子へ向く。
「明典……」
——スッ——
震える腕で抱き寄せる。
「明典……明典っ……!」
血に濡れた腕。
その腕の中。
何も知らない赤子が泣いている。
「ごめんなさい……」
——ポタッ——
涙が明典の額へ落ちる。
「ごめんなさい……っ」
——ポタッ——
「ごめんなさい……!!」
紫季の声が崩れる。
「ああ……あああぁぁぁぁぁっ!!!」
紫の霧は消えた。
ようやく世界が見えた。
その先にあったのは——
彼女が何より守りたかったもの。
ただ——
自らの手で壊した。
鮮烈な朱の地獄。
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