第九十一話 内側からの落日
信鷹の視界は、どす黒い理の色に染まっていた。
指一本動かす自由すら奪われ、自身の肉体が、自分ではない何かの意志に浸食されてゆく。
骨が軋む音、血管を逆流する呪いの冷たさ。
堕ちていく感触が、吐き気がするほど明瞭に伝わってくる。
(やめろ……動くな……動……くなっ……!)
心の中で叫ぶ。
その凄まじい焦燥に呼応するように、周囲の空間はまるで湿った肉壁のようにドロドロと脈動し、生温かい血の雨のような滴が枯れ枝から滴り落ちる。
異界そのものが彼を貪り食おうと牙を剥いていた。
激しい抵抗の証として、信鷹の右目からは、自らの意志で流した一筋の涙が溢れた。
その一滴だけが、このおぞましい外的世界を頑なに拒絶して透明に輝く。
だが、次の瞬間に見開かれた左目は、もはや人のそれではない。
金色の光を宿し、愛する者を呼ぶ名前ではなく、大地を震わせる鬼の咆哮を吐き出した。
『愛おしいな、人間。これほどまでに絶望を煮詰めながら、まだ兄であろうとするか』
鐘鬼の哄笑が、信鷹の頭蓋の内側で反響する。
抗おうとする信鷹の意識をあざ笑うように、彼の腕は不自然な角度で捻じ曲がり、意思に反して腰の刀へと手を伸ばす。
(俺は……須藤の……典膳様の……刀だっ……!)
その刹那、信鷹の執念が、一瞬だけ鬼の縛鎖を食い破った。
周囲に降り注ぐ血の雨を烈風が吹き飛ばす。
鞘から引き抜かれた刃が、狙ったのは典膳ではない。
信鷹は自らの右腿へと、渾身の力で刀を突き立てた。
「が……ぁぁぁ……っ!!」
肉を裂き、骨に達する激痛。
ドッと溢れ出した鮮血の熱さが、不浄な霧を一時的に吹き飛ばし、霧散しかけていた自分を繋ぎ止める楔となる。
激痛に顔を歪ませながら、信鷹は膝を突き、震える手で自らの肉を深く抉った。
痛覚という名の、人間としての、そして須藤の構成員としての最後の証明。
『……狂ったか、人間。自らの器を壊してまで抗うか』
脳内で響く鐘鬼の声に苛立ちが混じる。
信鷹は、血に塗れた口端を釣り上げ、凄絶な笑みを浮かべた。
周囲の枯れ蔓が、彼の発する凄まじい生への執念に焼かれ、パラパラと灰になって崩れ落ちていく。
「……き、貴様などに……指一本……触れさせ、ん……っ!」
だが、その忠義の灯火すらも、理の外側にある力によって無慈悲に塗り潰されていく。
深々と刺さった刀が、信鷹の意志に反してひとりでに抜ける。
その傷口を禍々しい紫炎が焼き潰し、強制的にその肉体を直立させた。
自分の肉体が、本人の忠義すらも燃料にして典膳を殺すための刀へと変貌していく。
世界は再び、どす黒い闇へと閉ざされていく。
暗い水底から水面を見上げるような意識の海に沈みながら、彼はただ見ていることしかできない。
その時、霧の向こうから、必死に自分を捜す典膳の足音が聞こえてきた。
(来るな……!来ないでくれ、典膳様っ!!逃げろ……逃げてくれっ……!!)
必死の祈りとは裏腹に、信鷹の口角が吊り上がる。
彼の喉からは、自身の悲鳴を押し殺すように、低く、湿った笑い声が漏れた。
かつて家族で囲んだ食卓の温もりを、団子を分け合って笑ったあの秋の日の輝きを。
それらすべてを汚染するように、信鷹の全身から冷酷な紫炎が噴き出し、吹き付ける春の嵐をすべて、絶望の灰へと変えていく。
一歩、また一歩。
自らの足に刻んだ痛みの記憶さえも引きずりながら、信鷹の足は、完全に陽の光を失った暗夜の歩調で、冷たく大地を蹴った。
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