第九十話 焦燥の毒
そこは、つい先刻まで春の陽だまりであったはずの場所。
だが、信鷹が踏みしめる地面は、いつの間にか湿った肉のような感触に変じ、視界を埋め尽くしていた藤の華は、急速にその鮮やかさを失っていく。
「な、なんだ……これは何なのだ!!」
瑞々しかった花弁は、命を吸い取られたかのように黒ずみ、縮れ、枯れ落ちる。
後に残されたのは、不気味にうねる乾いた蔓の群れ。
それはもはや植物ではなく、獲物を縛り上げるための鎖。
あるいは、巨大な怪異の脈動そのものだった。
「典膳様はっ……典膳様っ!!典膳様ーーーーっ!!!」
信鷹は喉が裂けんばかりに、弟の名を、主君の名を叫ぶ。
だが、その叫びは藤の枯れ枝に絡め取られ、反響することなく消えていく。
焦燥が毒のように全身を駆け巡る中、信鷹の脳裏を、先ほどの典膳の冷ややかな眼差しが過った。
(――なぜ、典膳様はあの藤を見て、あんな目をされていた……?)
溢れる霊力を失ってなお、誰よりも鋭利だった主君の直感。
典膳が警戒していたのは、藤の美しさではなく、その背後に潜む身内の毒だったのではないか。
人を癒やすはずの、あの薬師の。
そして、その思考の糸は、さらなる戦慄へと繋がっていく。
なぜ、怪異は最強であったはずの典膳ではなく、霊力で劣る自分をここに引きずり込んだのか。
(まさか……典膳様は、すでに……)
内側から器を焼き切られ、喰らうべき霊力すら残されていないほど、あの御方の肉体はすでに誰かに壊されていたからではないのか。
だから、化け物は標的を変えたのだ。
典膳様を孤立させ、その最たる手足であり、最も分厚い盾であるこの自分を、新たな器とするために。
「戻らねば……俺が、あの御方を守らねばならぬのだ……!」
狂ったように枯れ木を掻き分け、歩を進める信鷹。
置いてきた妹、愛すべき甥の顔が胸を締め付ける。
その強い想いこそが、泥沼のように彼をこの異界へ縛り付けていた。
その時、前触れもなくそれは現れた。
耳で聞くのではない。
脳に、脊髄に、直接叩きつけられるような、重苦しい質量のある声。
『――歓喜せよ。お前は選ばれた』
「なっ……誰だ、どこにいる!!」
『全てを絶望で満たす器。瑕疵を、完成させるための生贄』
枯れた藤の蔓が、意志を持つ蛇のように信鷹の足首に絡みつく。
逃れようと足掻く彼の眼前に、空間が歪み、巨大な穴のような影が形を成した。
『我は鐘鬼。須藤家を喰らうものなり』
信鷹の瞳が、恐怖と絶望に染まる。
すべてを理解した。彼が最期まで守ろうとした家族への愛、主君への忠義。
それこそが、この化け物を最も引き寄せ、歓喜させる甘美な餌だったのだ。
須藤の理が、今、信鷹という器を内側から破壊し、上書きを始めた。
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