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輪廻の瑕疵  作者: 朔來 織
~朱華の紫灰~

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第八十九話 藤色の回廊

街道をゆく馬の蹄の音が、のどかな春の午後を刻んでいた。

典膳は先刻から、溢れんばかりの相好を崩しては、明典の小さな掌がいかに力強く自分の指を握りしめたか。

その瞳がいかに明里に似て澄んでいるかを、飽きもせず語り続けている。


(……明里よ、案ずるな。典膳様は、お前が思うよりもずっと立派になられた。いや、度を越した親バカになられたと言うべきか)


手綱を握る信鷹は、口元にこぼれそうになる笑みを必死に堪えていた。

かつての鋭利な刃の如き主君。

家族という陽だまりの中でこれほどまでに柔らかな光を宿すようになるとは。

今の信鷹にとって、目の前の男は守るべき主君であると同時に、愛すべき妹の夫であり、共に一族を背負う、血の繋がりに勝る弟であった。


信鷹が噛み締めていたのは、ただの平穏ではない。

家督や序列といった冷徹な鎖を超え、ようやく手にした家族という名の幸福。

その実感を確かめるように、信鷹は弟を見つめる兄の眼差しで、典膳の背中を静かに見守っていた。


だが。

その幸福に水を差すように、どこからともなく、甘ったるく、それでいて肺腑の奥を逆撫でするような香りが漂い始めた。


「……っ……これは」


ふと視線を上げれば、街道の両脇から溢れ出すように、一面の藤の花がその枝を垂らしていた。

それは、あまりに鮮烈な紫。

どこまでも続く山肌の全てを塗り潰し、天から降り注ぐ大瀑布の如く波打っている。

風が吹くたび、幾千万もの紫の華が重なり合い、世界そのものが藤色に染まっていくかのような、暴力的なまでの美しさ。

圧倒的な紫の回廊だった。


「……典膳様、ご覧ください。これは……圧巻ですね」


信鷹が思わず感嘆の声を漏らす。

しかし、隣を行く典膳の反応は、予想に反して冷ややかなものだった。


「…………そうだな。だが、見惚れるな。行くぞ」


典膳の答えは短く、その声音には氷のような硬さが混じっていた。

眉間に深く刻まれた皺。

典膳の瞳は、眼前の壮麗な美景を愛でてはいない。

彼の視線は、その華やかな花弁の波を通り抜け、もっと奥――


一切の陽光が届かない、あの薄暗い屋敷の奥底。

そこに佇む、冷酷な藤色の袖をじっと見据えているかのようだった。


かつて昏睡する直前、自分を見下ろして嗤っていた、あの不条理な影。

その忌むべき気配を、典膳の鋭い本能が、この美景の裏側に嗅ぎ取っていた。


(……典膳様? 何故、そのような……)


信鷹がその不審を問おうとした、その瞬間だった。


突如として藤の華が激しく揺れ、視界が白く、あるいは灰色の霧に包まれたかのように急速に霞んでいく。

信鷹の瞳に映る典膳の背中が、津波のように舞い散る藤の花弁の奥へと、歪に吸い込まれていく。


「典膳、様……?」


声を上げたはずだった。

だが、自分の声すらも、耳を劈くような華のざわめきに溶けて消えていく。

典膳が弾かれたように振り返った時、そこにはもう、誰の姿もなかった。


春の風が、カサリと乾いた音を立てて藤の枝を揺らす。

昨日まで共に笑い、明日も共に在ると信じて疑わなかった兄の姿はない。

理の断層に穿たれた紫の回廊。

そこにはただ、美しく咲き誇る華の足音だけが存在していた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

『輪廻の瑕疵』は、毎日18:00に更新予定です。

※本作は「カクヨム」にも重複投稿しています。


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