第八十八話 朱の明星
「それでは行ってくる。明里も明典も、俺が帰るまで達者でな!すぐに戻るからな!すぐにだぞ、分かったな!」
いつになく饒舌に、そして名残惜しそうに門前で何度も足を止める典膳。
その視線は、愛する妻と、二年の沈黙の後に授かった愛息子――明典へと注がれていた。
日差しは春のように温かく、その光を反射して典膳が纏う朱色の羽織が鮮やかに燃えている。
あまりに眩しすぎる、幸福の絶頂。
「行きますよー、典膳さまー。ほら、完全に足が止まってますよ。門が呆れてます」
感傷に浸る主君の背中を、文字通り引き摺るようにして歩き出す信鷹。
「おい!信鷹!!まだ明里と明典と話し足りないだろうが!義兄になったからといって不敬だぞ!不敬だ!引き摺るなっ!」
ギャーギャーと騒ぎ立てる典膳の姿に、見送る明里は可笑しそうに、けれど少し呆れたように息を吐く。
「明典が生まれてからというもの、典膳様が息子にべったりなのは困りものですね……ねー、明典~?お父様、いつまでも過保護で困っちゃうわね」
腕の中の小さな命に優しく微笑みかけ、明里は遠ざかる朱色の背中を見つめ続ける。
だが、その微笑みの裏側で、彼女は言いようのない危うさを肌に感じていた。
今の典膳には、かつての圧倒的な霊力がない。
知略で勝るとはいえ、戦場に送り出す不安は、薄氷の上を歩くような緊張感を彼女の胸に刻み続けていた。
「典膳様……どうか、ご無事で」
視界の端から典膳の姿が消え、角を曲がって見えなくなるまで、彼女はその祈りを指先に込めていた。
これが、愛しい夫と交わす今生の別れになるとは――この時の彼女は、知る由もなかった。
一方、その光景を屋敷の奥。
一切の陽光が届かぬ薄暗い影の中から、じっと見つめる視線があった。
庭先には、風に揺れる小さな野花が静かに咲いている。
のどかな小鳥のさえずりが響くその風景は、どこまでも平穏そのものだった。
その穏やかな景色を障子の隙間から見つめながら、紫季の唇から、ふっと満足げな吐息が漏れる。
(……ああ……ようやく、準備が整ったわね……)
紫季の瞳が、暗闇の中で澱んだ喜びを湛えて細められる。
彼女の胸にあるのは、どこまでも純粋な母としての愛だった。
道舟を生かす。
その一つの目的のためだけに、彼女の正気は美しく統合されていた。
幸せそうに息子を抱く明里。
愛する者のために知恵を絞る典膳。
彼らがいなくなれば、この須藤家は、道舟のものになる。
私の生んだ、私だけの可愛い子供。
紫季にとって、眩しい門前の光景は、彼女が求める正しい平穏を維持するために、もはや排除すべき不必要な雑音でしかなかった。
「待っていなさいね、道舟。私がすべて、綺麗にしてあげますから」
微塵の迷いもない、慈愛に満ちた声。
理の外側で、静かに、けれど確実に鳴動を始めた不穏な気配。
運命という名の上書きが、今、無慈悲に始まろうとしていた。
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『輪廻の瑕疵』は、毎日18:00に更新予定です。
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