第八十六話 花と華
須藤家は相も変わらず、怪異との果てなき戦いに明け暮れる日々を送っていた。
だが、その殺伐とした日常の中に、一点の濁りもない、暖かな陽だまりのような時間が訪れる。
「……兄は……幸せものだぁぁぁぁぁ!!!明里ぉぉぉ!!!典膳様をよろしく頼むぞぉぉぉぉぉ!!!」
目の前で熊が咆哮している――
いや、それは酒が入る前から感極まって理性を失った、信鷹であった。
(いっそのこと、そのまま森へ帰ってほしい……)
典膳は、至近距離から飛んでくる信鷹の熱い飛沫を、表情ひとつ変えずに羽織の袖で拭った。
今日は、典膳と明里の祝言の日であった。
ささやかな膳が並ぶ広間には、厳かな中にも、どこか家庭的な温かい香油の匂いが満ちている。
そこに並んで座る明里は、白無垢の衣に包まれ、頬をほんのりと朱に染めていた。
いつもより少し大人びて見えるその姿が、典膳の目には酷く眩しい。
「お兄様……喜んでくれるのは凄く嬉しいんだけど……その、典膳様が大変なことになってるわ……」
困り果てたように眉を下げて笑う明里。
その細い指先が、典膳の手のひらにそっと触れた。
かつて昏睡する典膳の手を二年間握り続けた、あの優しい温もりだ。
典膳は静かに、けれど力強く、右手に携えた朱の扇を握り直した。
彼女の手の温かさを確かめるように。
「信鷹、明里のことは俺に任せよ。必ず幸せにすると、この朱の扇に誓おう」
その言葉に、信鷹が持っていた盃から酒がこぼれ、床に小さな波紋を作る。
彼の泣き声がさらに勢いを増した。
霊力を失い、一度は死の淵を彷徨った男。
彼を信じて支え続けた女。
そして、その背中を追い続けた無二の友。
三人は、幾多の苦難を乗り越え、血の繋がりを超えた本当の家族になった。
「ふふ、お兄様、泣きすぎですよ」
「うるさい、嬉しいのだから仕方あるまい!」
交わされる言葉、響く笑い声。
その光景は、慎ましくも優しく、そして力強い生命を感じさせる野花のような明るさに満ちていた。
だが、この時の典膳は、幸福という眩しすぎる光の中で忘れていた。
光が強ければ強いほど、その足元には必ず濃い影が落ちるということを。
(――なー、明典~!!)
かつて、もう一つの幸福の中で呼んだ我が子の名前が、脳裏を掠めたような気がした。
だが、その違和感をかき消すように、影の中から冷ややかな眼差しでこちらを見つめる華の存在がある。
屋敷の奥、陽の光さえ届かぬ場所で、藤色の袖が、怨嗟を孕んで静かに揺れていた。
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