第八十五話 五月雨の中の陽光
典膳が目覚めたという報せは、瞬く間に須藤家全土へと波及した。
ある者は、かつての英雄の帰還に歓喜し、声にならない声で咽び泣いた。
だがまたある者は、顔に張り付いた歪な笑顔を崩さぬまま、その回復を皮肉な喜びと共に嗤った。
典膳を欠いた二年の歳月。
それは、須藤家という巨大な組織を、人の欲と希望が境目なく混じり合う混沌の坩堝へと変貌させていた。
「……何度試みても、霊力が戻る気配がない、と……?典膳様、それは真ですか」
信鷹の問いに、典膳は自らの掌を静かに見つめ、力なく息を吐いた。
かつて朱の光を放っていた手のひらは、驚くほどに白く、静まり返っている。
「ああ……残念だが、一向に感じない。これでは、今の私は何もできぬ弱者だな。だが……それもまた致し方あるまい」
目覚めた典膳から、かつての強大な霊力が失われていた事実は、須藤家に深刻な動揺を与えた。
最強の矛を失った一族。
だが、当の本人はどこか憑き物が落ちたように楽観的だった。
「……信鷹。霊力がなくとも、俺にもやれることはある。戦場で差配をすることぐらいは出来る。一人や二人、霊力のない者がいても、全体の戦力に大差はないだろう?」
その言葉に、信鷹は耳を疑った。
須藤家は代々、個の強さこそがすべて。
当主とは誰よりも強く、最前線で荒ぶる魂を示すべき存在だったからだ。
だが、その常識はすぐに、戦場の熱風によって覆されることとなる。
「右、三歩。そのまま陣を閉じろ――左翼、火力を三割落として誘え。焦るな、引き込め」
戦場に立つ典膳は、かつてのように先陣を切ることはなかった。
代わりに、力無き指揮官として朱色の扇を鋭くかざし、戦場全体を盤面のように冷徹に見下ろした。
パァン、と扇が風を切る音一つ、ひと振りで、散り散りだった術者たちが一つの意志を持った生き物のように蠢き始める。
「今だ。信鷹、突き抜けろ」
典膳の合図。
その刹那、信鷹の目の前の敵陣に、微かな、だが致命的な隙が生まれた。
個々が闇雲に放っていた霊力が、典膳の手によって収束され、巨大な圧力となって妖異の急所を正確に抉る。
個が束となり、束が大きなうねりとなる。
典膳の紡ぐ戦術は、不浄なる者を絡め取り、逃げ場を奪う生きた鎖そのものであった。
(……俺は、典膳様を見誤っていた)
一糸乱れぬ統率。
自らより強大な妖異を容易く屠る一族の姿を見ながら、信鷹は歓喜に身震いした。
(この御方は……自らが闘えていたから、自らの手で祓っていただけなのだ。自らが動かずとも、これほどの闘い方があるとは。剣を振るう力など、この御方の才のごく一部に過ぎなかったというのか……!)
かつて一人で戦場を平らげていた頃の典膳にはなかった、残酷なまでの冷徹さと、仲間を駒として使い切る完璧な信頼。
信鷹の独白に、共闘した術者たちが言葉なく、けれど確信を持って静かに頷く。
彼らは今、新しい強さの形を目の当たりにしていた。
戦場の空は晴れ渡り、陽光に照らされた典膳は眩しそうに空を見上げていた。
片や、薄暗い須藤邸の冷え切った廊下で、同じ空を見上げていた道舟の瞳には――止むことのない五月雨が、冷たく降り続いていた。
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