第八十二話 黄梅の雨
季節外れの長雨が、須藤の屋敷の瓦を執拗に叩いていた。
その湿り気を帯びた静寂を切り裂いたのは、一人の男の怒号だった。
「何だとっ!!?典膳様が倒れただと!!?」
信鷹の豹変した声に、夕餉の牛鍋を準備していた明里の手から、カランと硬い音を立ててお玉が落ちる。
「典膳様が倒れられたって……何があったのですか!?お兄様!!」
「わからん……すまないが、典膳様の元に今すぐ向かう!!お前は家で待っていろ!直に遣いを出す!」
焦燥を剥き出しにして、雨の中へと駆け出す兄の背を見送った。
明里は、胸を締め付けるような不吉な予感に襲われる。
脳裏に浮かぶのは、いつも自分を案じてくれた典膳の、あの柔らかな笑顔。
「典膳様……」
零れそうになる涙を堪え、彼女は祈るように胸の前で手を握りしめることしかできなかった。
典膳は、底のない暗闇の中にいた。
胸の奥を、鋭利な刃で抉り回されるような激痛。
全身の血が逆流し、内側から器を焼き切らんとする朱の霊力の暴走。
立っていられないほどの眩暈が、視界を白く染めていく。
口内には、ドロリと生温かい鉄の味が広がった。
(……なんだ……この、痛みは……)
冷たい畳に這いつくばりながら、血を吐く思いで助けを求めようと震える手を伸ばす。
揺らぐ視界の先、そこには、いつだって自分を救ってくれた母の姿があった。
「母、上……」
「誰か!典膳が……!……典膳がっ……!!」
母の悲鳴が屋敷に響き渡る。
その叫びに応じるように、廊下を強く踏み鳴らす足音が四方八方から近づいてくるのが聞こえた。
「母上……申し訳……は、母上……?」
典膳は、自分を案じているはずの母の顔を見上げようとした。
だが、薄れゆく意識の淵で、彼は確かに見てしまった。
悲鳴を上げ、混乱を装う母の口元。
その端が、微かに、けれど残酷なほど鮮やかに、歪に吊り上がっていたのを。
「……ぁ……」
意識を手放す直前、愛する母が笑っていたような――そんな、あまりにも不条理な幻視。
典膳の瞳に映っていた日常の景色は、その瞬間、決定的に風化し、鮮やかな色彩を失っていった。
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