第七十九話 紫の霧、壊れゆく舟
屋敷を包む空気は、どこまでも穏やかで、毒々しいほどに優しかった。
執務室に籠もり切りだった典膳の元を訪れた紫季は、以前と変わらぬ柔和な笑みを湛えていた。
「典膳。旦那様が亡くなった後からずっと働き詰めですよ。少しは身体を休めなさい。あなたが倒れたらそれこそ皆が困るのです」
「母上……お心遣いありがとうございます。そうですね……父上が亡くなってから須藤家が離散しないように、私も気を張らないと、と……」
典膳が言い終える前に、紫季はその言葉を優しく遮る。
冷え切った彼の手に、温かい手がそっと重ねられた。
「あなたはまだ子供。長子の責務に応えようとするのはわかりますが、皆が支えているのです。少しは甘えなさいな。お茶でも飲んで一息つきなさい。ほら、あなたの好きな桜餅もありますよ」
「……わかりました。そうですね、皆を信じて休むのも当主の務め。甘いものに甘えましょうか」
典膳の口元に、久しぶりに年相応の綻びが生まれる。
「ええ。今、お茶を点てますからね」
仄かに薫る茶の香りが、戦場のような実務の匂いを典膳の鼻腔から追い出していく。
差し出された茶碗から立ち昇る湯気。
典膳は固く張っていた心の糸を、自ら少しずつ緩めていった。
「どうぞ。ゆっくり過ごしなさいな」
「ありがとうございます、母上。こんなにゆっくりと過ごす時間は、なんだか遠い昔のように思えます」
典膳は茶を啜る。
温かな液体が喉を通る感覚を、物思いに耽りながら楽しんだ。
その光景は、紛れもない、久しぶりの日常であった。
「母上、道舟の身体の様子はどうですか?」
「……まだあまり良くありませんが、少しずつ良くなっていくと思いますわよ」
紫季は典膳に濁りのない笑顔を向け、静かに言葉を紡いだ。
その瞳の奥にある、歪んだ光を覆い隠すように。
「そうですか……それならよかった。道舟は父の代わりに一緒に須藤家を支えていく大切な弟。母上が淹れてくださった茶を、また一緒に飲める日を心待ちにしておりますよ。お茶、ご馳走様でした。この後も、母上の言いつけを守って皆に支えてもらいますね」
典膳は、心からの信頼を込めたにこやかな笑顔を母に向け、再び実務の書面へと目を戻していく。
その健気な背中を見送る紫季の唇が、音もなく動いた。
「そうですね……そんな日が来ることを、私も心待ちにしてますよ……」
典膳が飲み干した空の茶碗。
紫季が落とした視線の先、その底には、消えることのない不気味な紫の霧が、淀みとなってべっとりと張り付いていた。
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