第八話 凶と興
縁側に座り、來はゆっくりと煙管を燻らせていた。
立ち昇る紫煙の向こう、月光が照らす虚空に想いを馳せる。
それは鉄と血の臭いが混じり合い、視界のすべてが朱く染まった、遠い鬼の記憶だ。
かつての來は、鬼の中でも突出した天災に近い存在だった。
数多の祓う者を屠り、その肉を喰らい、魂を砕いた。
当時の彼には迷いなど微塵もなかった。
強者ゆえの渇きはあったが、それが食欲なのか、ただの破壊衝動なのか。
己にすら判じえぬまま、ただ本能のままに力を振るっていた。
「……何が、足りない」
死体の山の上で、若き日の來は虚空を見上げていた。
すべてを手に入れ、すべてを壊した。
それでも心に空いた穴は埋まらない。
執着も、意志も持たず、ただ、鬼であることに流されるだけの最凶の空虚。
彼を最も絶望させたのは、己の生の構造そのものだった。
鬼は滅んでも、来世でまた鬼として生まれる。終わりのない飢え。
その輪廻の鎖は、どんな名刀でも断ち切ることはできない。
「……地獄も飽きた。久しぶりに、あちらを渡ってみるか」
最凶の鬼として人の世に現れた來を、人々はただ恐れ、跪いた。
だが、そこに地獄と変わらぬ退屈を見出した彼の前に、一人の女が立ちはだかった。
「……退屈そうにしてますわね。目的が無いのであれば、お帰りくださいませんこと?」
目の前の力なき者。
だが、他の人間とは何かが違った。
初めて自分という存在を、鬼という天災ではなく、一人の生ける個として射抜かれた瞬間だった。
「……人よ。俺が怖くはないのか」
來の問いに、女――紫季は、薄っすらと唇を弧に描いた。
「怖い?鬼を目の前にして今更何を。私があなたをどうこう出来るわけではありませんからね」
「お前を喰らう、と言ったらどうする」
「あなたのお好きになさい。ただし、私は美味しくはないと思いますわよ」
その曇りのない軽口に、來の胸の内で、初めて未知の興味が生まれた。
地獄ですら、自分にこんな言葉を投げる者は存在しなかった。
「お暇なら我が家へいらっしゃいな。強き者は歓迎しておりますの。鬼や穢れを祓うお仕事ですけれど。住むところと食事ぐらいは用意しますわよ」
誰もが恐れる頂点の鬼に、鬼を祓わせるという傲慢。
そのあまりの身勝手さに、來は喉の奥で静かに笑った。
「くくく……鬼に鬼を祓わせるか、女。いいだろう、興が乗った。案内しろ」
「あら、本当に来るの?それなら鬼の角は隠しなさいな。それぐらい出来るでしょう?知らないけれど」
「女。名は何という」
藤色の着物を優雅に揺らし、凛とした声が夜気に響く。
「私は、須藤紫季。鬼を祓う家に嫁いだ、ただの人ですわ」
人に興味を持ったのか、それともこの紫季という人に惹かれたのか。
來にはまだわからない。
「これからは俺の面倒を見よ、紫季」
「……あなたの存在が、すでに一番面倒ですわ。旦那様に何て言おうかしらね」
呆れ顔の女の後ろを、角を隠した鬼が歩いていく。
この出会いが、須藤家の光と影をその瞳に刻み続ける長い歴史の始まりであった。
來は縁側で、ゆっくりと最後の一服を吐き出す。
あの日の紫季の着物と同じ色の煙が、今の夜空に静かに溶けて消えた。
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『輪廻の瑕疵』は、毎日18:00に更新予定です。
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