第七話 牛鍋の湯気と柚
夜の帳が下りた町外れ。
数多の提灯が揺れる中でも、ひときわ濃厚な割り下の香りを漂わせる店がある。
牛鍋処『ゆず』
その暖簾をくぐるなり、威勢のいい声が飛んできた。
「ようやく来たね。おかえり!沙苗!來!」
彼女の名は柚。
腰に手を当て、不敵に笑う若女将だ。
界隈では不老の美女と噂される彼女だが、その正体は、かつて來が遠目に見た鬼の家族の娘であった。
父と母が遺した、あまりに純粋で強すぎる、娘の幸せを願うという祈り。
それは数百年を経ても彼女の時を止め続けている。
老いることのない祝福という名の呪いが、今の彼女の身を包んでいた。
「……相変わらず耳に響く声だ」
來が耳をさすりながら肩をすくめると、柚は小気味よく笑い飛ばした。
「うるさいよ、この朴念仁!ほら、さっさと座りな!今日は特上の肉を仕入れてあるんだからね!」
グツグツと鉄鍋の中で踊る、鮮やかな緋色の肉。
柚は手際よくそれを捌きながら、沙苗を妹のように、或いは危なっかしい娘のように慈しむ。
彼女は数多の大切なヒトの死を看取ってきた。
その掌には、看取った数だけの温かな諦念が染み込んでいる。
「柚……あんたこそ、いつまで看板娘なんてやってるのよ。もういい歳でしょ?」
沙苗が肉を頬張りながら皮肉を投げると、柚は青筋を立ててふんぞり返った。
「小娘が大人に生意気な口を利くんじゃないよ!あたしよりあんたの幸せの方が心配だね。ちゃんと現実を見な、小娘っ!!」
「ぐっ……年頃の女子にそんなこと言うか、この年増っ!!」
「ははっ、殺される覚悟があるのはいいこった!そこに直れっ!!煮込んでやるっ!!」
言い合う二人を横目に、來は熱い肉を口に運んだ。
甘辛い割り下の味が、空っぽの胃に染み渡る。
(幸せ、か……)
來の瞳には、沙苗の笑顔がどこか危うく映る。
誰かのために、あるいは須藤家という宿命のために笑う沙苗の姿。
それは不安定で歪な幸せの形に見えた。
「あんたもだよ、來」
すると、柚の鋭い視線が來を射抜いた。
「あんたがヒトで在ろうと足掻いて今を生きる。それは、特別なことなんだ……本当にわかってるのかい?」
「……俺がか?」
呆れた顔で箸を止める來に、柚は深いため息をついて額を押さえた。
「これだから鬼ってのは……いいかい。あんたがそこに居るだけで、救われる奴だっているんだよ」
沙苗は柚の叱咤を子守唄のように聞き流しながら、温くなったお茶を啜る。
「あたしは柚と來がいるこの場所で、牛鍋を食べている。これで十分幸せだけどねえ」
「それは当たり前に納得してるだけ。幸せってのは、もっと欲張っていいもんなのさ」
柚の言葉は厳しく、けれど深い愛情という熱を帯ていた。
「はぁー……食べたー。ごちそうさま、柚」
「はいよ、お粗末様。また明日も食べに来なさい。肉を多めに残しといてやるからね」
店を出ると、夜風が火照った頬を撫でる。
背後には、柚が守り続ける温かな灯りが揺れていた。
「……沙苗。幸せってのは、難しいんだな」
「そうかしら?柚に会えて、美味しいものを食べた。十分でしょ」
前を歩く沙苗の背中を見つめながら、來は思う。
いつか沙苗にも、本当の幸せを欲する日が来るのだろうか。
その時、自分は隣にいられるだろうか。
鬼とヒトが守った家族の場所。
二人は静かな夜道へと消えていった。
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『輪廻の瑕疵』は、毎日18:00に更新予定です。
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