第三十四話 もう一つの器、約束の緋色
「朱禰は須藤家の歴史の中でも……天才中の天才だぞ?」
|若き日の道源は、まるで自慢の宝物を披露する子供のように、不敵に、そして誇らしげに笑った。
その屈託のない兄の貌は、沙苗たちが知る枯れた隠居人のそれとはあまりにかけ離れている。
「お前ら、あいつが灰色を纏って、ただの枯れた姿しか見てないだろ。俺が今ここにこうして現れた理由は一つだ……沙苗、お前に真の緋色の顕現を託すため。朱禰がこれまで一度も表舞台に出なかった……出られなかった理由を教えるためだ」
沙苗は、心臓の鼓動が耳元で鳴るのを感じながら、父の瞳を見つめ返した。
「もう一つの器……」
道源が、その言葉の意味を喉の奥で転がすように低く呟く。
「あいつはな……もし、お前という本物の器が壊れた時のための……もう一つの器だ」
道源の言葉が、白の世界の温度を静かに下げた。
あの陽気で、柴犬のシンに小言を言っていた田中の婆。
その平穏はすべて、最悪の事態に備えて自分の生を殺し、感情を削ぎ落として作り上げた仮初の姿だったのだ。
「とはいえ、今は沙苗。お前が俺の予想通り、いや、予想以上に鮮やかに緋色を顕現させた……これでようやく、あいつも本来の生き方ができるようになる。随分と……本当に、随分と待たせちまったけどな……」
道源の瞳に、一瞬だけ鋭い業ではない、兄としての痛切な色が混じった。
三十年。
兄の悪趣味な相談のすべてを受け入れ、万が一の身代わりとして、退屈で凡庸な人生を過ごしてきた。
彩豊かな己の生を消し、灰色の停滞の中に魂を沈めて。
すべては、いつか現れるはずの姪のために。
「沙苗。お前の緋色で、朱禰の灰色を焼き消してやってくれ。あいつを縛ってる停滞の呪縛……その冷たい鎖を、お前の熱で上書きするんだ」
道源の指先から、炎が溢れ出す。
その身体が、陽炎のように淡く透け始めた。
「呪縛が解ければ、あいつは本来の姿を取り戻す。あいつの才は、必ずお前たちの力になる……あとは、お前らで、そのくそったれな灰色の世界を……腹の底から笑い飛ばしてこい」
若き道源の姿は、弾けるような緋色の火の粉となって、純白の虚無へと溶け込んでいく。
「――父さんっ!!」
沙苗の手が空を掴む。
次の瞬間、重力が戻り、肺に埃っぽい空気が流れ込んだ。
気がつけば、一行は元の、静謐な書斎に立っていた。
しかし、そこにある静けさは、先ほどまでとは違う。
三十年という長い月日、この部屋の主と、隣で笑っていた老婆が共有し続けてきた覚悟の重み。
沙苗は、静かに自分の掌を見つめた。
そこには、父から託された、熱く、どこまでも優しい緋色が脈打っていた。
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