第三十一話 理解の放棄と、至高の牛鍋
「……頭が、痛いわ……というか、もう……魂が削れた感じがする」
沙苗が机に突っ伏す。
感情を揺さぶられ、世界の裏側を知り、挙句の果てに『鬼殺す』を嗜むええ声の柴犬と最強の婆。
情緒の置き所を完全に見失った三人の精神は、もはや満身創痍であった。
「……柚……あんた……なんでそんなに平然としてるのよ……」
沙苗は、いつものように台所で朗らかに笑っている柚を見上げた。
「犬は喋るし、飛ぶし……『鬼殺す』は飲むし、田中の婆ちゃんは理解の斜め上を爆走してるし……なんであんたはそんなに普通でいられるのよ……」
柚は手を止めて少しだけ悪戯っぽく笑った。
「沙苗、知ってる?わからないものは、わかろうとしないことが生きるコツよ。もちろん、わかろうとすること自体は否定しないわ。ただ……シンが『鬼殺す』を飲む。喋る。飛ぶ。そういうもんだと納得するの。そりゃ驚ろき慄きはするけどね!その後は、あははって笑えばいいのさ」
沙苗は絶句した。
身近にこれほどまでに受容の怪物がいたとは。
「……ふぅ。さすがに疲れたな。蒐……牛鍋をもらえるか」
來が静かに声を出す。
「へい。と言いたいところですけど、來様……今日は柚さんの牛鍋でお願いさせてもらいます。俺は食う側に回らせてもらわんと……もう……心が持ちまへん……」
「あら、そう。じゃあ、腕によりをかけて作るわね。特盛りの牛鍋、それから……」
柚は沙苗の隣で物珍しそうに割り箸を眺めていた少女に視線を向けた。
「紅葉ちゃん、あなたも食べるわよね?初めてのご飯、最高に美味しいのを作ってあげる!」
「はい!ありがとうございます、柚様!」
紅葉は弾んだ声で答えた。
やがて、甘辛い醤油と肉の焼ける芳醇な香りが店内に満ち、黄金色の卵が落とされた至高の牛鍋が運ばれてきた。
「……っ……美味しい……」
沙苗が肉を口に運び、ようやく人心地つく。
「ああ、これだ……この味が、今の荒んだ心に一番効くわ……」
「……悪くない……」
來も黙々と箸を進める。
蒐は涙目で肉を咀嚼している。
そんな三人の中心で、紅葉は一口食べるごとに、まるで全身が輝きを放つような満面の笑顔を浮かべていた。
「……ふわぁ、美味しい……!沙苗様、來様!食べるって、こんなに温かくて幸せなことなんですね!」
概念として生まれ、ただ観測することしかできなかった彼女にとって、それは初めて体験する生の感触だった。
頬を染め、熱心にハフハフと鍋を突っつく紅葉。
そのニコニコとした笑顔は、先ほどまでの曇っていた顔とは違う。
心なしか、いや、明らかにこれまでで一番の輝きを放っている。
「……あんた、本当に幸せそうに食べるわね」
沙苗はそれを見て、先ほどまでの刺々しい怒りが、少しずつ穏やかな緋色へと溶けていくのを感じた。
「はい!私、この味を……沙苗様たちが教えてくれたこの温かさを、絶対に忘れたくありません!」
紅葉の純粋な輝きと柚の作る日常の牛鍋。
混沌の夜の片隅で、彼らは確かに今、ここにある幸せを共有していた。
重い運命の鎖ではない。
一組の箸。
一つの鍋。
一回の食事。
そんな些細な日常が、今は何よりも彼らの背骨を強く支えていた。
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『輪廻の瑕疵』は、毎日18:00に更新予定です。
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