第二十四話 緋色の器と朱色の盃
「………………」
沙苗は目の前の光景をどう脳内で処理すべきか、人生最大の壁にぶち当たっていた。
目の前では、柴犬が朱色の盃に注がれた『鬼殺す』をチビチビと舐めている。
行儀よく前足で箸を操る……わけではなく、鍋に顔を近づけ、極めて上品に葱抜きの牛鍋を食している。
口元から滴り落ちるタレ。
ブンブンと音を立てて左右に振れる尻尾。
なのに、なぜかそこはかとない品を、目の前の柴犬は醸し出している。
「……なんでこの店に、そんなクセのある名前の酒があるのよ……」
「沙苗様……気にしたら負けや……俺もさっきから、あの犬の飲み方が仕事終わりのごっついおっさんにしか見えん……」
蒐が死んだような目で隣に座る。
沙苗は意を決して、少女と、盃を傾けるシンに向き直った。
「……シン……いえ、須藤信鷹。遊びは終わりよ。教えて……この緋色って、一体何なの。あたし、何をしたのよ」
シンは『鬼殺す』の芳醇な香りを鼻腔で楽しむように目を閉じる。
劇場版の最大の見せ場を飾った余韻を思わせる、ええ声で語り出した。
「沙苗。この世界の理において、力とは本来、白、黒、灰の三色しかない。それ以外は色を持たない。ただ世界の理として形を成さずに消えていく運命にある……世界が崩壊に向かう中で理の罅から漏れ出る、いわば死にゆく世界の残り香だ」
シンは盃の底に残った、どこまでも澄んだ酒を見つめる。
「だが、ここで致命的な揺らぎが起きた。消失するはずの生命力を無理やり繋ぎ止め、己の意志で着色した者が現れた……それが、お前だ」
「着色……?」
「そうだ。お前の染まることを許さないという信念が、無色透明な世界の命を、鮮やかな緋色という形へ焼き付けた。お前はただの霊力の使い手ではない。消失しゆく世界を、自分の色で無理やり塗り替えた、色彩を持つ器なのだよ」
少女が沙苗の隣でそっと、その緋色の器である手首に触れた。
「沙苗様の色がなぜ緋色なのか……それは、今の沙苗様に一番必要な色だったから。情熱でもなく、怒りでもなく、誰かを赦し、繋ぎ止めるための温かな色……」
沈黙が流れる。
來と蒐は自分の掌を見つめた。
最凶と呼ばれた己の黒の力が、沙苗の緋色に救われたあの瞬間を思い出す。
「……必要な色ね……」
沙苗は自嘲気味に笑った。
「世界が壊れて漏れ出た欠片みたいな力を、あたしが勝手に拾って塗ったってこと?……つくづく、可愛くない力だわ」
「ふん……理を無視して美しさを求めた代償だ。誇るがいい、沙苗」
シンは最後の一口を飲み干すと、満足げに喉を鳴らした。
「さて、女将……今の話の対価としては安すぎるが、この牛鍋の会計は俺のええ声でつけにしておいてくれ」
『できるかぁぁぁ!!金払いなさいよこの駄犬っ!!』
沙苗と柚の怒声が綺麗に重なる。
世界の崩壊。
漏れ出る生命力。
色として世界に揺らぎを与えた自分。
あまりに重い真実を突きつけられたはずなのに、目の前のええ声の犬のせいで、沙苗の心からは重さが消し飛ばされていた。
「……で。蒐。言ってたわね。この子に名前、あたしが付けていいの?」
沙苗は、隣に座る名もなき概念の少女を見つめた。
新しい色が生まれたことで、初めてこの世界を観測した少女。
彼女にどんな名を与えるべきか。
それは、世界に揺らぎを作った張本人にしか許されない。
神聖で、けれど至極個人的な納得の儀式だった。
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『輪廻の瑕疵』は、毎日18:00に更新予定です。
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