第二十一話 飛翔する柴犬、或いは理外の少女
「……なぁ、來様。自分、あの犬の顔、見てみてくださいよ」
來がごみ捨て場の隅で震える――正確には、小刻みに何かを堪えている柴犬を指差した。
「……シンという名前に納得がいってない顔してません?田中の婆は好きやけど、安直すぎやろ。二文字縛りに甘えんな!って、眼光が語ってますわ」
「……そんな訳あるか。犬は喋らんし、名前で誇りを語らん……それより、熊をどかすぞ」
來が鬼らしからぬ至極真っ当な冷静さで、ツキノワグマの巨体を片手で担ぎ上げた。
よっという声と共に、壁際へとお引越しさせる。
その隙に蒐が、そりゃそうやなと苦笑いしながら、シンの首輪を掴もうと手を伸ばした。
その瞬間だった。
「――ぬぅんっ!」
そんな声が聞こえた気がした。
柴犬、シンの四肢が重力を無視して地面を蹴り上げた。
ただの跳躍ではない。
シンは空中で静止し、あろうことか來と蒐の頭上を優雅に旋回したのだ。
「……は?」
蒐の手が空を切る。
見上げれば、そこには空中を散歩するように四肢を動かしている柴犬がいた。
二人を見下ろすシン。
「……へっ!」
と鼻を鳴らす。
その顔は、明らかに自分たちを見下した、傲慢な笑みを湛えていた。
「……犬が喋らんのは当たり前……犬が飛ぶのも当たり前なのか、來様」
「……そんなわけあるかぁぁぁぁ!!!」
來の地響きのような絶叫が路地裏に轟いた。
最凶の鬼と、執着の鬼。
かつて鬼の世界を震撼させた二人。
たかが一匹の柴犬を捕まえるために、力技で屋根から屋根へと跳び始めた。
「待ち晒せ、このわん公!!田中の婆が泣いとるんやぞ!」
「……待て!降りてこい!話を聞けっ!!」
重力を無視して逃げるシン。
それを殺気立って追いかける鬼二人。
町の住民が空を見上げる。
「あ、祓い屋さんが飛んでるー」
二人の鬼の矜持は、今、一匹の柴犬によって地面に転がされていた。
『あんの駄犬ーーーーっ!!』
二人の声が重なる。
シンを追いかけ、街外れの古びた社へと辿り着いた時。
空中を走っていたシンが、ストンと一人の少女の肩に降り立った。
「……そこまでですよ。お二人とも」
鈴の鳴るような、けれど底知れない静謐を湛えた声。
そこにいたのは、季節外れの白い振袖を纏った、透き通るような少女。
彼女の肩でシンが、やれやれとでも言いたげに前足で顔を洗っている。
「……何者や……あんた……」
蒐が鋭い眼光で少女を射抜く。
その隣で來もまた、無意識に黒刀に手を掛けた。
この少女からは妖気とも霊力とも違う、もっと理に近い何かを感じる。
少女はふわりと微笑み、深々と頭を下げた。
「最凶の鬼、來様。そして執着の鬼、蒐様……私の名は、まだありません。ただの観測者とでも呼んでいただければ」
少女の瞳には、來と沙苗、そして蒐たちの瑕疵の記憶が、万華鏡のように映し出されていた。
「沙苗様の緋色について……私は、確かめに来たのです」
「わふっ」
シンが少女の肩で短く吠えた。
平穏な迷子犬捜索は一瞬にして、世界の理に触れる新たな扉へと変貌を遂げた。
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『輪廻の瑕疵』は、毎日18:00に更新予定です。
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