第十九話 影とお玉と割烹着
昨日が遥か昔に思える、今日という平穏。
重い体を引きずり、空腹を満たすべく牛鍋処『ゆず』の暖簾をくぐる。
來と沙苗を待っていたのは、異次元の光景だった。
「……いらっしゃ~い」
聞き覚えのある、けれど絶望的にこの場にそぐわない声。
店の入り口に立っていたのは、漆黒の洋装の影鬼。
真っ白な割烹着を纏った蒐が、そこにいた。
耳には煙草を挟み、手にはお玉。
「…………は?」
沙苗の口から、魂の抜けたような声が漏れる。
昨夜、自分たちと役目という名の殺し合いをした存在が、目の前にいる。
緋色の光で赦した執着の化身が、気だるげにお品書きを差し出している。
「……蒐。お前、何をしている」
來が、かつてないほどの戸惑いを瞳に浮かべて問う。
「これが……きゅん……なのか」
いいや、違う。
「見たらわかるやろ、奉公や。ほら、牛鍋。食べに来たんやろ?俺が作ってん。熱いうちに食べ。伸びたら承知せえへんで」
「情緒わい!!あたしの情緒の置き所どこにぃぃぃ!?!?!?」
沙苗の突っ込みが店内に響く。
蒐は鼻を鳴らすと、鮮やかな手つきで鍋を火にかけた。
「柚!ちょっと柚!!この子……いや、このクソガキ!なんでお店で働いてんのよ!!」
沙苗が台所の奥に叫ぶと、腕組みをした柚が鼻息荒く現れた。
「ああ、沙苗。昨日の夜、あんたたちに牛鍋の差し入れ持っていったのさ。そしたら門の前で、このこじらせたガキがシケモク吸って黄昏れてたんだよ」
話は昨夜に遡る。
満身創痍で煙草を吸っていた蒐に、柚は一切の物怖じせずこう言い放ったのだ。
「あんた、面構えはいいけど泣きそうな顔してるね……料理は得意かい?」
柚は蒐を見て吹き出しそうになりながら、言葉を続けた。
「そしたらこのガキ、なんて言ったと思う?」
蒐は気まずそうに目を逸らし、地元の訛りでぼそりと呟いた。
「……粉もんなら、作れるで」
「粉もんってあんた!!鬼の世界に粉もん文化あったの!?」
「うるさいわ。生きるために媚びてた頃、屋台の親父に仕込まれたんや……醤油の焦げる匂いは、理を凌駕するんや」
蒐が作った牛鍋を、來がおそるおそる一口食べる。
「…………っ!!」
「來!?大丈夫!?毒とか入って――」
「……美味い……不味くない。熱い。悔しいが……美味い」
蒐は、ドヤ顔をする。
まるで授業参観で親を見つけて張り切る子供のそれだ。
沙苗も一口、口に運ぶ。
衝撃が走った。
最高の牛肉の旨味を、蒐の媚びることで磨かれた完璧な味付けが引き立てている。
絶品だ。
柚の味とはまた違う、どこか中毒性のある暴力的な美味さ。
「なっ……!?なによこれ、悔しいけどめちゃくちゃ美味いじゃない!!」
「だろう?」
柚が勝ち誇ったように笑う。
「無味娘とは違うのだよ、無味娘とは!何を作っても無味になるあんたと比べたら、味覚だけは執着の塊だね。うちの新しい看板息子さ!」
「……誰が息子や。俺は來様の影として……」
「はいはい、影なら影らしく三番席の片付けやってきな!」
「……へいへい」
割烹着を翻し、蒐があっという間に皿を下げていく。
その背中には、昨夜の禍々しさは微塵もない。
あるのは、新米奉公としての奇妙な誇りと、少しだけ誇らしげなどや感。
「……蒐。あたしたち、あいつを赦したけど」
「ああ」
「……こういう形になるとは思ってなかったわね」
「……これがヒトの世の納得というやつか……蒐、お代わりだ」
「自分で入れろや、この食いしん坊鬼!」
昨夜の戦いは夢の泡沫として消え去った。
立ち上る牛鍋の湯気の向こうで、蒐が少しだけ口角を上げたのを、沙苗は見逃さなかった。
絶品の粉もん牛鍋。
瑕疵を埋めた三人の、騒がしすぎる新しい日常がここから始まろうとしていた。
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『輪廻の瑕疵』は、毎日18:00に更新予定です。
※本作は「カクヨム」にも重複投稿しています。
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