第十八話 月下、煙に巻く
静寂が、須藤邸を深く包み込んでいた。
激闘の痕跡が生々しく残る境内で、蒐はゆっくりと目を開いた。
全身を走る、焼けるような痛み。
骨は砕け、霊脈は焼き切れている。
だが、不思議と不快ではない。
肺に流れ込む夜気が、かつてないほど澄んで感じられた。
(……静かやな)
屋敷の奥からは、二人の寝息が聞こえてくる。
沙苗は、あの緋色の炎を絞り出した反動で泥のように眠り、彼女を案じて寄り添っていた來もまた、傷の深さと安堵感から深い眠りに落ちていた。
今の自分なら二人を殺せる。
無防備な首筋に指をかけ、そのまま握り潰すのは造作もないことだ。
蒐は笑った。
自嘲気味に、けれどどこか晴れやかに。
(あかんな……殺す気どころか、指一本動かすんも億劫や……)
かつてあれほど求めていた來を鬼へ戻すという野望。
沙苗を壊すという役目。
今の蒐には色褪せた過去の残骸にしか見えなかった。
憧れた背中にあった温かさ。
それを自分も確かに受け取った。
その事実だけで、空っぽだった蒐の感情は満たされていた。
重い身体を這いずるように動かし、月明かりの差す縁側へと出る。
ボロボロになった煙草の箱を手に取る。
「……ほんまに鬼かいな、俺……あ、あかん。地元訛りが出てもうてる」
不意に口を突いて出たのは、鬼の世界で格差を生き抜くために捨て去ったはずの、故郷の訛り。
理知的な言葉を並べ、冷徹な観察者を気取っていた自分。
けれど、本来の自分はもっと泥臭く、もっと滑稽な小鬼に過ぎない。
その事実を認めることが、今はひどく心地よかった。
蒐は震える指で火を灯し、ゆっくりと紫煙を夜空へ吐き出した。
「……ま、それぐらい、今は晴れたってことか……」
心が晴れた、とまでは口にしない。
それが彼の鬼としての矜持だった。
月明かりに照らされ、ゆっくりと空へ昇っていく煙。
行く先は、まるで浄化された蒐の魂が向かうべき場所を示しているようだった。
「……勝手な連中や……赦すとかアホか……こっちも勝手にさせてもらうで……」
蒐は煙草を指に挟んだまま、目を閉じた。
明日、あの不器用な二人が目を覚ました時、自分はどんな顔をすればいいのか。
想像するだけでまた少し、気持ちの悪い温かさが頬を掠める。
「……寝よ……明日から、忙しなりそうやしな……」
夜が明けようとしていた。
どこまでも不器用な鬼が、新しい朝を待っていた。
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『輪廻の瑕疵』は、毎日18:00に更新予定です。
※本作は「カクヨム」にも重複投稿しています。
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