第百四十二話 鏡鳴
蜘蛛の巣状に広がる無数の罅。
——パキッ——
——パキパキッ——
灰色が剥がれていく。
塗り潰されていた因果が——
内側から崩れていく。
——フワッ——
「……!」
沙苗が顔を上げる。
頬に触れる暖かな色。
灰色の世界へ色が戻り始めていた。
『おのれ……』
鍾鬼の巨躯が震える。
『おのれェェェェッ!!』
——ズオォォォォッ——
紫の灰が渦巻いた。
巨大な腕が伸びる。
罅へ。
光へ。
——ズズズズズッ——
罅を紫の灰が覆っていく。
崩れ始めた因果を無理やり塞ごうとする。
『消えろ!!』
——ゴォォォォッ——
紫灰が荒れ狂う。
「…………」
典膳の動きが止まる。
その視線は鍾鬼の先を見ていた。
典膳の瞳に何かが映る。
その耳に誰かの声が届いていた。
——パチッ——
「……?」
——パチパチ——
薪が爆ぜる音。
『きゃっきゃっ!』
「——っ」
子供たちの笑い声。
囲炉裏。
薪の匂い。
鼻先を掠める——
線香の香り。
「……あぁ……」
典膳の瞳が揺らぐ。
遠い。
あまりにも遠い。
それでも——
知っている。
『見るなァァァァッ!!』
鍾鬼が吼えた。
——ゴオォォォォッ——
紫の灰が典膳へ押し寄せる。
「典膳様」
沙苗が声をかける。
典膳の背中へ。
「思い出してください」
「…………」
紅葉が目を閉じる。
胸元へ手を添えた。
——フワッ——
緋い光が揺れる。
「…………!」
典膳の視界から——
紫が消えた。
在りし日の藤の華。
夕暮れ。
柔らかな光。
古い屋敷。
縁側。
「…………」
典膳は立ち尽くす。
そこに、一人の女がいた。
背を向けている。
顔は見えない。
「…………」
胸の奥が痛む。
忘れたはずの何かが——
息を吹き返す。
唇が動いた。
「…………」
その名を呼ぼうとする。
「…………」
声が出ない。
因果が喉を締め付ける。
『オァァァァァァッ!!』
——ズオォォォォッ——
鍾鬼が吼える。
再び紫灰が世界を覆う。
藤が。
縁側が。
夕暮れが。
紫灰に呑み込まれる。
——パキッ——
『……!』
——パキパキッ——
紫灰が罅へ叩きつけられるたび。
鏡がさらに割れていく。
『何故だ……!』
——バキッ——
『何故塞がらぬ!!』
光が溢れる。
因果を押し退けていく。
「…………」
典膳が振り返った。
初めて、真正面から沙苗を見る。
「……!」
沙苗は動かない。
典膳の瞳。
そこにあった狂気が——
消えていた。
須藤典膳という
一人の男。
乾いた唇が震える。
「……さ……」
沙苗の瞳が揺れる。
「典膳様……?」
「…………」
もう一度。
唇が動く。
『典膳ンンンンッ!!』
——ゴオォォォォッ——
紫の闇が押し寄せる。
「——っ!」
典膳の姿を呑み込む。
声を。
視界を。
差し込んだ光ごと奪おうとする。
——パキッ——
それは、もう叶わない。
鏡に走った罅は——
もう消えなかった。
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