第百三十九話 帰鏡
視界が、ゆっくりと開いていく。
「…………」
あの景色はどこにもない。
柱。
障子。
囲炉裏。
目の前に広がるのは——
荒涼とした灰色の世界。
「……戻った」
沙苗が周囲を見渡す。
誰もいない。
何もない。
「……線香」
微かに残っている。
深く。
優しい香り。
須藤家で感じた。
あの線香の香り。
「…………」
沙苗は目を細める。
どこへ向かうのか。
誰を迎えに行くのか。
もう知っている。
「ここから先は……」
道源が前方を睨む。
灰の向こう。
深い闇。
「俺たちの仕事だ」
須藤家の歴史を廻る旅は終わった。
——ザッ——
紅葉が一歩、前へ出る。
——ギュッ——
拳を固く握る。
灰色の道の先。
紫の灰が揺らめく。
「……!」
その向こう。
一人の男が立っていた。
——須藤典膳。
扇を携えた——
凛然たる姿。
「典膳……様」
沙苗が歩き出す。
——ザッ——
灰を踏む。
逃げない。
構えない。
——ザッ——
また一歩。
「…………」
典膳の肩が、微かに揺れた。
「……帰れ」
低い声。
掠れていた。
「…………」
沙苗は首を横に振る。
歩みは止めない。
「嫌です」
「…………」
「迎えに来ました」
——ピタッ——
世界が止まった。
宙を舞う灰。
音。
何もかもが止まる。
典膳の手が、扇へ触れた。
「帰れ」
先ほどよりも強い声。
鋭く沙苗を拒絶する。
「…………」
——ザッ——
沙苗は歩く。
幾年。
幾代。
積み重なった距離を——
一歩ずつ埋めていく。
「もう——」
沙苗は典膳の背中を見つめた。
「一緒に帰りましょう」
「…………」
典膳の身体が動く。
ほんの僅かに——
沙苗たちへ振り返った。
「……帰る場所などない」
——ズズズズズッ——
「……っ!?」
背後の闇が蠢いた。
灰色の世界を圧し潰すような気配。
紫の灰が渦を巻く。
その中心から——
巨大な影が滲み出す。
——鍾鬼。
数多の因果を狂わせてきた怪異。
その輪郭が——
闇の中から姿を現す。
『ククッ……』
低い嗤い。
「…………」
典膳は動かない。
沙苗たちを見ない。
その瞳が捉えたものは、ただ一つ。
鍾鬼。
「典膳様……?」
——ゴォッ——
灰塵が舞い上がる。
典膳は扇を握る。
鍾鬼を真っ直ぐに見据えた。
「……邪魔だ」
「…………!」
沙苗が目を見開く。
世界を壊そうとしていた男。
狂気に呑まれ。
因果に囚われ。
帰る道さえ失った男。
終わっていなかった。
この灰鏡の世界で。
たった一人で。
須藤典膳は——
今も、戦い続けていた。
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