第百三十五話 当主
——パチッ——
囲炉裏の熾火が爆ぜた。
陽炎のように揺れていた人影が、少しずつ輪郭を帯びていく。
着物の衣擦れ。
座る姿勢。
立ち上がる気配。
顔立ちは、未だ判然としない。
そこに集う者たちの存在が、確かになっていく。
囲炉裏の傍ら。
一人の老人が、沙苗たちへ語りかけた。
「典膳様は、最後まで私どもの当主でした」
「……!」
沙苗が息を呑む。
誰かから聞かされた話ではない。
この地で生きてきた須藤家の魂が、自ら語っている。
老人の言葉に、別の声が重なった。
「怖かったけれど、本当にお優しい方でした」
「子供には、酷く甘いお方でねえ」
「畑仕事まで、平気で手伝ってくださったなあ」
「一度しか会っておらん私の名まで、覚えていてくださったぞ」
老人。
女。
若者。
幼い子供。
次々と声が上がる。
語る思い出は、それぞれ違う。
だが——
誰もが、同じ名を呼んでいた。
「典膳様」
武勇を称える声ではない。
英雄を讃える言葉でもない。
不器用で、温かい男。
須藤典膳という一人の人間を、心から慕う声だった。
「…………」
沙苗は立ち尽くした。
敵。
輪廻の元凶。
世界を壊そうとする怪物。
自分たちが戦ってきた男。
その男のことを——
何も知らなかった。
恐ろしい祖先。
それだけではなかった。
この家の人々にとって、典膳は——
慕うべき当主だった。
「…………」
道源が視線を落とす。
囲炉裏の熾火が、その横顔を照らした。
「……だから信鷹は」
言葉は、そこで途切れた。
信鷹は、典膳を拒絶しきれなかった。
その因果に殉じようとした。
沙苗は、囲炉裏を囲む人影を見つめた。
彼らの声が、耳に残っていた。
紅葉が口を開く。
「誰一人、典膳様を責めた人はいません」
——パチッ——
薪が爆ぜた。
恨んでいない。
失敗したとも。
自分たちを見捨てたとも——
誰も思っていなかった。
——サラッ——
囲炉裏の向こう。
先ほど薪をくべた人影の肩が、わずかに揺れた。
笑ったのだろうか。
その人影は、沙苗たちから視線を外した。
座敷の奥。
灯りの届かない暗闇へ、顔を向ける。
「典膳様も、そろそろ帰って来られますよ」
魂の一人が、そう告げた。
懐かしい人を待つように。
帰りを信じて疑わない声だった。
——パチッ——
囲炉裏の熾火が、小さく弾けた。
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