第百十九話 集う影
——スッ——
長屋の戸が開く。
沙苗が振り返る。
道源。
その顔を見た瞬間——
手拭いを握る手に力が入る。
挨拶はない。
道源が沙苗を見る。
「お前も——」
「…………」
「見たか」
沙苗の瞳が揺れる。
「……うん」
——コトッ——
湯呑みが置かれる。
「紅葉の影が……遅れるの」
「…………」
「紅葉が動いてから、遅れて動く」
道源は黙って聞いている。
「それだけじゃない」
沙苗が右腕を押さえる。
「影が二つになった」
「二つ?」
「一瞬だけ」
「…………」
「もう一人……そこにいるみたいに」
——ズキッ——
「……っ」
沙苗が顔を歪める。
道源の視線が腕へ落ちる。
「見せろ」
「…………」
沙苗が袖を捲る。
緋色の火傷。
腕の奥へ広がっている。
「……やはりな」
道源が目を細める。
「町も同じだ」
「え?」
「影が伸びている」
「…………」
「陽の位置とは関係なくな」
沙苗が息を呑む。
「町中……?」
「ああ」
——ガラッ——
戸が開く。
來と蒐が入ってくる。
「來?」
「話がある」
來が道源を見る。
「灰牙を見た」
「灰牙!?」
沙苗が立ち上がる。
「怪我は!?」
「違う」
來が手で制する。
「襲ってこなかった」
「……え?」
「俺たちを見ていた」
蒐が口を開く。
「それから——」
「…………」
「影ん中へ消えましたわ」
道源の眉が動く。
「消えた?」
「ええ」
蒐が自分の影を見る。
「あれはもう——」
僅かな沈黙。
「獣やない」
「……現象」
「……そうやろな」
部屋が静まる。
來が壁へ背を預ける。
「紅葉は戻った」
「…………」
「なのに、何も終わってない」
道源が数珠を握る。
「……いや」
全員が見る。
「終わらなかったのではない」
「……え?」
「繋がったままなのかもしれん」
沙苗の顔から——
表情が消える。
「繋がった……?」
「…………」
——ガラッ——
「何だい」
朱禰が入ってくる。
全員を見る。
「揃いも揃って葬式みたいな顔してさ」
「朱禰」
「話は聞いたよ」
朱禰が腕を組む。
「要するに」
「…………」
「あの灰色が、まだこっちに残ってるんだろ?」
誰も答えない。
「このまま増え続けたら——」
朱禰が窓の外を見る。
「町どころじゃ済まない」
「…………」
「世界ごと灰色になる」
「……まだあるの」
沙苗が呟く。
「何?」
「昨夜」
全員が沙苗を見る。
「庭に……犬がいた」
「犬?」
「うん」
沙苗が窓を見る。
「見たことない犬」
「…………」
「でも——」
拳を握る。
「あたし、知ってる気がした」
來が眉を寄せる。
「どんな犬だ」
「朱い毛」
「……っ」
「燃えてるみたいな——」
——ガタッ——
道源が立ち上がる。
「父さん?」
道源の顔が変わっている。
「朱毛……」
「え?」
「本当に——」
沙苗を見る。
「朱毛だったのか」
「……うん」
「…………」
「父さん?」
返事はない。
「知ってるの?」
「……探すぞ」
「え?」
「その犬をだ」
「ちょっと待って」
沙苗が立ち上がる。
「何か知ってるの?」
「……確かめる」
道源が戸へ向かう。
「何を?」
足が止まる。
「まだ——」
数珠を強く握る。
「帰ってきていない者がいる」
「……っ」
沙苗が息を呑む。
——ガラッ——
戸が開く。
朝の光が——
六畳半へ差し込んだ。
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