第百十七話 残る影
——トントントン——
包丁がまな板を叩く。
——パチッ——
焼けた鮭の皮が爆ぜる。
沙苗が柱時計を見る。
——カチッ——
昨夜止まった時計。
今は——何事もなかったように動いている。
——パタパタ——
「沙苗姉さま」
紅葉が台所へ入ってくる。
「お手伝いします」
「いいのよ」
沙苗が振り返る。
「座ってなさい」
「ですが……」
「もうお味噌汁もよそうだけだから」
紅葉の頭を軽く小突く。
「ほら」
「……はい」
紅葉が嬉しそうに笑う。
白米。
味噌汁。
焼き鮭。
いつもの朝食。
「いただきます」
紅葉が手を合わせる。
箸を持つ。
鮭の身をほぐす。
「…………」
沙苗の手が止まった。
紅葉が箸を上げる。
その足元。
影だけが動かない。
「…………」
——スッ——
遅れて動く。
「……っ」
紅葉の手が止まる。
影が追いつく。
「美味しいです、沙苗姉さま」
味噌汁の湯気。
その向こう。
紅葉が笑っている。
「よかった」
紅葉は気付いていない。
足元を見る。
影はもう紅葉と同じ形をしていた。
食卓が片付く。
沙苗は一人、右腕の袖を捲る。
「…………」
緋炎の火傷。
昨日より濃い。
腕の奥へ。
血管のように広がっている。
——ズキッ——
「……っ」
袖を戻す。
後悔はない。
紅葉はここにいる。
柚が沙苗を見る。
「……沙苗」
「何よ」
「その腕……」
沙苗が笑う。
「なによ、そんな顔して」
「…………」
「朝ごはん作るくらいなら、あたしでも出来るわよ」
「そういうことじゃ——」
「平気よ」
沙苗は笑ったまま柚から目を逸らした。
午後。
紅葉が縁側に座っている。
風が庭を抜ける。
長い髪が揺れる。
「…………」
薄暗い部屋。
沙苗はその背中を見ていた。
雲が流れる。
陽が陰る。
そして——
再び光が射す。
「——っ」
沙苗の瞳が見開かれた。
紅葉の背後。
影が——
二つある。
一つ。
縁側に座る紅葉。
もう一つ。
「…………」
長い髪。
今の紅葉よりも大きい。
女の影。
「……まさか」
沙苗が立ち上がる。
「紅——」
雲が流れた。
光が消える。
「…………」
影が一つに戻る。
「沙苗姉さま?」
「…………」
「どうかなさいましたか?」
「……何でもない」
「そうですか?」
紅葉が微笑む。
再び庭を見る。
風に髪が揺れる。
沙苗は——
その背中から目を離せなかった。
夜。
長屋に静寂が落ちる。
「…………」
紅葉が眠っている。
穏やかな寝息。
その隣。
沙苗は目を開けていた。
一拍遅れた影。
二つに分かれた影。
長い髪。
「…………」
——ズキッ——
腕が疼く。
沙苗が火傷を押さえる。
隣を見る。
紅葉はいる。
手を伸ばせば触れられる。
「…………」
沙苗が紅葉の手を握る。
温かい。
確かに——
ここにいる。
それでも昼間に見た影が消えない。
「……大丈夫よ」
暗闇へ声が落ちる。
紅葉の手を握る。
「…………」
その声は——
僅かに震えていた。
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