第百十六話 食卓の重力
——コトコト——
土鍋の蓋が跳ねる。
白い湯気。
醤油。
砂糖。
牛肉の脂。
牛鍋の匂いが広がる。
「さあ、できました」
紅葉が火へ手を伸ばす。
「火を弱めますね」
白い指先。
——ユラッ——
一瞬だけ透ける。
「…………」
誰も何も言わない。
紅葉が手を合わせる。
「いただきます」
——スゥッ——
指先に色が戻る。
「よしっ!」
沙苗が箸を持つ。
「待ってました!」
袖の下。
赤く腫れた腕が疼く。
——ズキッ——
「……っ」
沙苗は笑う。
「ほら紅葉!」
鍋へ箸を伸ばす。
「紅葉の分!」
「え?」
「一番いいお肉!」
牛肉を掴む。
そのまま紅葉の小鉢へ落とす。
「あんたの分ね!」
「あ……」
紅葉が小鉢を見る。
肉が山になっている。
「沙苗姉さま、そんなにたくさん……」
「いいの!」
「…………」
紅葉が微笑む。
「ありがとうございます」
箸を伸ばす。
肉を掴む。
口へ運ぶ。
「…………」
噛む。
飲み込む。
部屋の隅。
揺れていた景色が——
僅かに戻る。
「…………」
道源が壁際から見ている。
牛鍋を囲む食卓。
沙苗の笑い声。
紅葉の箸。
湯気が昇る。
「……理屈ではないな」
「ん?」
沙苗が振り返る。
「何か言った?」
「いや」
道源が目を閉じる。
「何でもない」
「変なの」
「……よかった」
柚が小鉢を握る。
「本当に……よかった……」
目に涙が溜まる。
「柚?」
「何でもないわよ」
豆腐を箸で掴む。
そのまま口へ放り込む。
「——あっつ!!」
「えっ!?」
沙苗が笑う。
「何やってんのよ!」
「うるさいわね!」
柚も笑う。
涙を拭う。
紅葉が——
そこにいる。
同じ鍋を囲んで食べている。
「…………」
來は黙って肉を食べる。
「來」
「なんだ」
「食べ過ぎ」
「早い者勝ちだろ」
「子供か!」
「うるさい」
沙苗が笑う。
——パチッ——
袖の隙間。
緋色が弾ける。
紅葉の周囲へ消えていく。
「紅葉」
「はい」
「豆腐、もう一つ食べる?」
鍋を覗く。
「こっちの方がお出汁が染みてるわよ」
「……はい」
紅葉が小鉢を差し出す。
沙苗が豆腐をよそう。
「美味しいです、沙苗姉さま」
「……ふふっ」
窓の外。
鳴り続けていた風が止まった。
「そりゃそうよ」
沙苗が笑う。
「紅葉が作ったんだから」
白い湯気が昇る。
いつもの夜。
いつもの食卓。
牛鍋の匂い。
笑い声。
その中に紅葉がいた。
やがて食卓が片付く。
——カチャッ——
沙苗が皿を洗う。
「…………」
窓を見る。
月は——
一つ。
その光の下。
紅葉がいる。
「…………」
沙苗の手が止まる。
身体とは違う方向。
紅葉の影はゆっくりと伸びている。
——ユラッ——
「…………」
——カチッ——
柱時計が止まった。
「……っ」
——ズキッ——
腕が疼く。
沙苗が濡れた手を握る。
紅葉は帰ってきた。
「……明日も」
沙苗が窓を見る。
「ちゃんと朝ごはん、作らなきゃね」
「…………」
紅葉の影が揺れる。
世界はまだ——
彼女を拒んでいる。
それでも明日も朝は来る。
沙苗は——
そう決めていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
『輪廻の瑕疵』は、毎日18:00に更新予定です。
※本作は「カクヨム」にも重複投稿しています。
もし「沙苗と來のコンビが良いな」「先が気になる」と思ってくださったら、
評価、ブックマークで応援いただけると、執筆の大きな励みになります。
そして、もうひとつの物語——
『SOUL TR@DE』も毎日18:00更新中です。
和風怪異とはまったく異なる、
魂と市場を巡る近未来ダークファンタジー。
あわせて楽しんでいただけたら嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします。




