第百十三話 世界の拒絶
崩壊は加速していた。
紅葉という特異点を中心に。
世界が彼女の存在を拒絶していた。
——ギュッ——
沙苗は紅葉の手を握りしめる。
温もりは確かにある。
だが——
世界がそれを否定していた。
掴んだはずの紅葉の手首。
その場所だけ。
景色が僅かにズレている。
光が歪む。
空気が曲がる。
因果そのものが——
紅葉を避けている。
「……ねえ、紅葉」
声が響かない。
すぐ隣にいるのに——
紅葉の周囲から音が消えていた。
風も。
瓦礫の崩れる音も。
柚がすすり泣く声も。
「……怖い」
沙苗の口から言葉が漏れた。
紅葉が怖いわけではない。
腕の中にいる家族が——
この世界から浮き上がっていく。
どうすることもできない。
その現実が怖い。
それでも沙苗は手を離さない。
——ギュッ——
握る指に力を込める。
確信があった。
ここで離せば——
紅葉は二度と人として戻れない。
「……やはり、近付いてはいけなかったか」
道源が苦渋の声を漏らす。
紅葉を見ていない。
その足元。
影が落ちるはずの場所を、薄目で見つめている。
道源ですら直視を避けていた。
「來、抜くなよ……」
言葉を切る。
「抜くべき場所すら——」
來は刀の柄に手をかけたまま動かない。
「見えてないだろうからな」
敵とも。
味方とも。
認識できない。
目の前の少女にあるのは——
空白そのもの。
斬るべきものがない。
刃を振るえば——
世界そのものが壊れる。
「道源……」
「…………」
「俺は何を、守ればいい……」
空気が張り詰める。
紅葉がふと手を伸ばす。
沙苗の結んだ髪。
「沙苗姉さま」
いつもと変わらない仕草。
「髪紐がゆるんでいますよ」
少し乱れた毛先を整える。
「あ、お豆腐、お出汁が染みた頃でしょうか?」
紅葉が微笑む。
その背後。
街並みが音もなく砂へ還った。
空に——
三つ目の月が浮かぶ。
狂った世界。
紅葉だけが夕食の献立を気にしていた。
紅葉が一歩を踏み出す。
靴が地面に触れる直前。
——スゥッ——
足元が消える。
「……っ」
沙苗が息を呑む。
紅葉が進もうとする。
その先が消える。
別の場所へ足を向ける。
また消える。
紅葉をどこにも立たせない。
世界そのものが——
彼女の存在を拒絶していた。
「……あれ?」
紅葉が困ったように小首を傾げる。
周囲の重力が揺らぐ。
時間が一定に流れない。
紅葉から世界の法則が逃げていく。
「……おかしいですね」
澄んだ声。
「お家に、帰れないみたいです」
その瞳には——
何も映っていない。
崩壊も。
拒絶も。
世界の悲鳴も。
紅葉はただ——
昨日と同じ日常を愛している。
今日も沙苗の隣にいたいだけ。
「帰れるよ!!」
——ギュッ——
「帰るの!!私が連れて帰るから!」
沙苗が紅葉の肩を抱き寄せる。
世界の拒絶から紅葉を——
自分が繋ぎ止める。
紅葉は細い身体を沙苗に預ける。
「——っ!!」
視界が真っ白に染まった。
紅葉の体温が戻る。
焼き付くような熱となって——
沙苗を貫いた。
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