第百十二話 届かない体温
世界はまだ——
形を失い続けていた。
建物の輪郭が溶ける。
空の色が数秒ごとに反転する。
その崩壊の中。
「……きれい……?」
沙苗には見えない。
紅葉の言う灰色の空。
見えるのは燃え盛る夕焼け。
極夜。
それらが混ざり合った——
狂った万華鏡のような虚空。
「紅葉……何言ってるの」
沙苗の膝が震える。
「世界はめちゃくちゃで……」
再び手を伸ばす。
先ほどは空を切った。
もし本当に——
紅葉がどこにもいないのなら。
「紅葉」
声が震える。
「こっちに来て」
「…………」
「そこは駄目」
伸ばした手が震える。
「何か……おかしい」
警告ではなかった。
迷子になった子供を——
必死に呼び戻すような。
ただの悲鳴。
「…………」
柚は二人を見ていた。
呆然と。
頬を涙が伝う。
悲しいわけではない。
怖いわけでもない。
紅葉という存在から溢れ出す——
意味の欠落。
それが柚の内側を激しく揺らしていた。
「……あ……」
喉が震える。
「……ああ……」
言葉にならない。
今の紅葉は空っぽの器に見えた。
何も入っていない。
こんなに優しいのに分からない。
——ポロッ——
分からない。
涙だけが溢れる。
その後ろ。
道源は動かない。
ただ——
紅葉を見ていた。
鋭く。
何も言わず。
(……言うな)
口端が固く結ばれる。
(言葉にするな)
今——
感じている違和感。
言葉にした瞬間。
何かが決まる。
紅葉という存在が。
何かへ固定される。
今はまだ。
紅葉という——
少女のままで。
「……沙苗姉さま?」
「——っ」
紅葉が呼ぶ。
先ほどまでとは違う。
虚ろではない。
いつもの柔らかな声。
紅葉が歩く。
崩れているはずの地面を——
確かに踏み締める。
まるで最初から——
何も壊れていないように。
「顔色が悪いですよ」
沙苗の前で膝をつく。
「そんなに震えて……」
手を伸ばす。
「どこか——」
「…………」
「痛むのですか?」
沙苗の身体が強張る。
それでも逃げない。
紅葉の手が頬へ触れる。
「……っ」
生きている。
ただの体温。
「……あったかい……」
少しだけ低い。
少女の温度。
「…………」
沙苗は怖かった。
その当たり前が——
怖かった。
影は異形へ変わる。
どの世界にもいない。
歪な何かが見ている。
「落ち着いたら」
紅葉が微笑む。
「帰りましょう?」
「…………」
「今日は」
少し困ったように笑う。
「あの牛鍋の残りを」
「…………」
「お豆腐と一緒に煮直すって——」
沙苗を見る。
「約束していましたから」
狂い果てた空。
崩れ続ける世界。
紅葉だけが——
変わらない日常を生きている。
「紅葉……」
沙苗がその手を掴む。
両手で強く。
壊さないように。
「あんた……本当に……」
声が詰まる。
「…………」
紅葉はただ見ている。
「……あんた」
沙苗の瞳が揺れる。
「寂しくないの?」
——ポタッ——
紅葉の手の甲へ涙が落ちる。
「…………」
紅葉はその雫を見た。
悲しみの無い目で。
不思議そうに。
「寂しい……」
僅かに首を傾ける。
「いいえ」
沙苗を見る。
「私は——」
頬へ。
もう一度——
手が触れる。
「ただ」
優しく撫でる。
「ここにいるだけですから」
「…………」
その指先はどこまでも優しい。
そして——
どこまでも遠い。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
『輪廻の瑕疵』は、毎日18:00に更新予定です。
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