第百十一話 観測の外側
狂い始めた世界は——
もはや景色ですらなかった。
——ザッ——
沙苗が一歩を踏み出す。
「——っ」
足元が変わる。
石畳。
土。
焼けた地面。
見知らぬ時代。
見知らぬ場所。
一歩ごとに——
現在が滑り落ちていく。
「くそっ……!」
來が手を伸ばす。
崩れていく世界。
繋がりを失った理。
その糸を——
必死に手繰り寄せる。
「いや……」
柚が耳を塞ぐ。
「もう……何なの……」
意味が溢れる。
声。
記憶。
匂い。
知らない誰かの感情。
濁流のように押し寄せる。
柚はその場に蹲った。
「…………」
その中で。
紅葉だけが——
立っている。
静かに。
何事もないかのように。
「……紅葉?」
沙苗が見る。
紅葉の背後。
街が燃えている。
瞬きをする。
深い森。
もう一度。
何もない——
虚無。
「…………」
背景だけが変わっている。
紅葉は——
変わらない。
髪も。
着物も。
その輪郭さえ。
何一つ——
世界に侵されていない。
「紅葉……?」
沙苗が手を伸ばす。
「どうして……」
足元が歪む。
「そんなに落ち着いて——」
——スッ——
紅葉の裾へ。
指先が——
触れる。
はずだった。
「——っ」
空を切る。
「……え?」
もう一度。
——スッ——
届かない。
目の前にいる。
なのに——
触れられない。
水面に映る月。
どれだけ手を伸ばしても。
そこには——
いない。
「……紅葉」
沙苗の声が震える。
紅葉が振り返る。
「はい?」
「…………」
見ている。
確かに——
沙苗を。
だがその瞳には——
沙苗のいる世界が映っていない。
「……静かですね」
「え?」
紅葉が微笑む。
「とても——」
周囲を見る。
「静かです」
——ゴォォォォッ——
街が燃える。
——ズズズッ——
地面が裂ける。
——ガシャン——
何かが崩れる。
「何言ってるの……?」
沙苗が息を呑む。
「こんなに……」
紅葉には——
聞こえていない。
「皆様」
小さく首を傾げる。
「何かに追われているみたい」
「…………」
「私は——」
胸に手を添える。
「ただ、ここにいるだけなのに」
紅葉が足元を見る。
「……?」
白い欠片。
先ほど——
柚が触れたもの。
「…………」
紅葉は拾わない。
触れない。
ただ——
見る。
「——っ」
沙苗の瞳が見開かれる。
紅葉の影。
「……何?」
動いた。
紅葉は——
動いていない。
——ズルッ——
影だけが——
地を這う。
「紅葉……?」
人ではない。
腕。
一つ。
二つ。
十。
百。
いや——
腕なのかすら分からない。
幾つもの何か。
重なり——
混ざる。
一つの形を——
作ろうとしている。
——スッ——
「…………」
「ああ」
道源が呟く。
「……そうか」
「父さん……?」
道源は紅葉を見る。
その顔から——
笑みが消えている。
「…………」
道源にも見えない。
目の前にいる少女が——
何なのか。
だが一つだけ——
分かる。
「……紅葉」
道源が問いかける。
「お前」
「はい?」
「今——」
紅葉を見る。
「何を見てる?」
「…………」
紅葉は小首を傾げた。
空。
幾重にも重なる月。
崩れる街。
燃える過去。
消えていく現在。
そのどれも——
紅葉の瞳には映っていない。
「……何も」
「何も?」
「はい」
紅葉は空を見上げる。
「ただ——」
微笑む。
「とても綺麗な」
「…………」
「灰色の空が見えます」
「——っ」
沙苗が空を見る。
灰色ではない。
月が重なっている。
「…………」
紅葉だけが——
どの世界にもいない。
違うということすら——
成立している。
「紅葉……」
沙苗が名前を呼ぶ。
紅葉は振り返る。
「はい?」
いつもの笑顔。
「…………」
何も知らない——
少女の笑顔。
それは、今。
この世界に存在する——
何よりも取り返しのつかない異常だった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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