第百九話 同期不全
朝食を終えた——
穏やかな時間。
そのはずだった。
「…………」
重さ。
ざらつき。
灰を孕んだ風。
——キュッ——
——キュッ——
柚は一人。
使い込まれた板場を——
黙って拭いている。
「……ねえ」
沙苗が顔を上げる。
「この看板」
壁を指差す。
『牛鍋処ゆず』
「前からこうだった?」
「……何が?」
「ここ」
沙苗が文字を見る。
「……あれ?」
字の結び。
ほんの僅かに——
右へ突き抜けている。
「こんなんだったっけ……」
何千。
何万。
見てきた文字。
それなのに——
知らない。
まるで——
異国の文字。
「…………」
柚は答えない。
自分の掌を——
見つめている。
——ズズッ——
來が残った汁を啜る。
「……っ」
眉を顰める。
「苦いな」
「え?」
「柚」
椀を見る。
「薬味に何か混ぜたか?」
「ちょっと待って」
沙苗も汁を啜る。
——ズズッ——
「…………」
首を傾げる。
「これ——」
「…………」
「すごく甘くない?」
「は?」
「がっ……」
蒐が口元を押さえる。
「がらいっ……!!」
「え?」
「何なんや……」
蒐の顔が引き攣る。
同じ鍋。
同じ汁。
苦い。
甘い。
辛い。
「……そんなはずは——」
柚が椀を取る。
——ズズッ——
目を見開く。
「……ない」
「柚?」
「味が——」
舌へ残る。
汁。
温度。
香り。
「味が……しない」
同じものを食べている。
なのに——
同じものを感じていない。
「……始まったな」
「——っ」
全員が入口を見る。
暖簾の向こう——
道源が立っていた。
「観測が——」
道源は店内を見ない。
外を見る。
「個に引き裂かれ始めている」
「……父さん」
「来い」
道源が背を向ける。
「自分の目で見た方が早い」
——カラカラッ——
暖簾を潜る。
「…………」
全員がその後を追う。
——ザッ——
いつもの町。
いつもの道。
いつもの人。
——ザッ——
男が歩く。
「…………」
——ズルッ——
影が——
遅れて動く。
「……え?」
沙苗が目を細める。
——ゴォォォン——
鐘。
「——っ」
來が振り返る。
遠くの寺。
鐘は——
まだ揺れていない。
——グォン——
遅れて鐘が揺れる。
「何だ……」
——ガラガラッ——
人力車が通り過ぎる。
車輪が——
石畳を踏む。
「…………」
音がない。
——ガラッ——
——ガラガラッ——
通り過ぎた後。
何もない虚空から——
音だけが溢れる。
「何や……」
蒐が辺りを見る。
「これ……」
世界が——
ずれている。
光。
音。
影。
時間。
同じ場所に——
存在していない。
「紅葉……?」
來が振り返る。
「…………」
道端。
紅葉が——
立ち尽くしている。
——スッ——
虚空へ手を伸ばす。
「……一人じゃない」
「何がだ?」
「声です」
紅葉の指が——
何もない空間へ触れる。
「同じ言葉が……」
瞳が揺れる。
「上から——」
「…………」
「何度も」
紅葉が耳を押さえる。
「重なってくる……」
——ァァ——
子供。
——ァァァ——
男。
——ァァァァ——
女。
「……っ」
同じ声。
違う声。
違う時代。
違う後悔。
それらが——
重なる。
紫灰。
その器を支点に——
存在しないはずの時間。
今へ——
押し込まれていく。
沙苗が向かいを見る。
呉服屋。
昨日まで——
鮮やかな暖簾が風に揺れていた。
「……え?」
今はない。
朽ちている。
何十年も——
風雨に晒されたように。
破れた暖簾。
褪せた壁。
看板を見る。
店の名前すら違う。
「何……これ」
人が歩く。
誰も——
見ない。
誰も——
驚かない。
——ザッ——
——ズルッ——
人が歩く。
影が——
遅れてついていく。
「……世界が」
沙苗の声が——
震える。
「壊れてる……?」
「…………」
知らない店。
知っている町。
すべてが混ざりあう。
「今……」
「…………」
「書き換わってるの……?」
——バサッ——
道源の羽織が揺れる。
「……違う」
道源が静かに告げる。
「壊れているのは——」
沙苗を見る。
「世界じゃない」
「じゃあ……」
「見る側だ」
「——っ」
道源が歩き出す。
「日常を——」
色褪せた町を見る。
「喰らい始めたか」
「誰が?」
「…………」
道源は答えない。
「行くぞ」
「父さん?」
「世界が完全に崩れる前に」
「どこへ行くのよ!」
道源の足は——
止まらない。
「確かめに行く」
「何を?」
「…………」
僅かに——
顔を上げる。
鈍い空。
「どの時代が——」
「…………」
「俺たちを見ているのかを」
「——っ」
昼前。
明るい——
日差し。
その下。
町は——
色を失っていく。
輪郭が——
震える。
空を見る。
青ではない。
白でもない。
灰でもない。
ゆっくりと。
確実に何かに——
染まっていく。
世界が——
壊れているのではない。
今。
過去。
未来。
世界が同じと——
認識するため。
——ズズッ——
その接続が——
ずれていく。
同期が——
壊れ始めていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
『輪廻の瑕疵』は、毎日18:00に更新予定です。
※本作は「カクヨム」にも重複投稿しています。
もし「沙苗と來のコンビが良いな」「先が気になる」と思ってくださったら、
評価、ブックマークで応援いただけると、執筆の大きな励みになります。
そして、もうひとつの物語——
『SOUL TR@DE』も毎日18:00更新中です。
和風怪異とはまったく異なる、
魂と市場を巡る近未来ダークファンタジー。
あわせて楽しんでいただけたら嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします。




