第百六話 味の番人
柚の記憶。
それはいつも——
割り下の甘い香り。
父親の丸まった背中から始まる。
まだ背が届かなかった頃。
空の酒箱に乗り——
皿を洗っていた。
「お父さん」
「ん?」
「あの隅の席」
柚が指を差す。
「なんでいつも空けておくの?」
「…………」
父は——
使い込まれた包丁を研ぐ。
「そこはな」
手を止める。
「柚」
「…………」
「あそこは——」
「…………」
「迷子が座る席なんだ」
「迷子?」
「そうだ」
「…………」
「迷子だ」
店を手伝うようになり——
柚はその意味を知った。
時折。
その席に座る——
須藤の人間。
「…………」
凍てつくような瞳。
あるいは——
燃え尽きた灰。
彼らは皆——
現世という場所の歩き方を忘れていた。
迷子。
「須藤の人が来たら——」
父の声。
「黙ってあの席へ通せ」
「…………」
「葱は絶対に入れるな」
「葱?」
「いいか、柚」
父が見る。
「俺たちの仕事は——」
「…………」
「牛鍋を食わせることじゃない」
包丁を置く。
「あいつらに——」
「…………」
「自分はまだ」
父が笑う。
「腹が減る人間なんだってことを——」
「…………」
「思い出させることだ」
それが田中の家に伝わる——
唯一の秘伝。
葱という魔除けに頼らない。
まっとうな人間の食事を出す。
味が濃すぎれば——
生きていることを実感させすぎる。
それは毒になる。
薄すぎれば——
死に近づけてしまう。
須藤が——
須藤で居続けるため。
必要なのは体温ほどの温かさ。
店を継ぐと決めた日。
父から渡されたもの。
それは家系図ではない。
黒ずんだ一冊の帳面。
「…………」
頁を捲る。
そこに残された——
歴代店主の文字。
客たちの食いっぷり。
『シン、今日は三口残した。危うい』
「…………」
頁を捲る。
『朱禰様、箸が進まず。理に飲まれかけている』
(……私は——)
古びた暖簾。
油の染み付いた壁。
すべてが須藤を繋ぎ止める。
化け物になりかける背中。
現世から必死に——
引き止めるための鎖。
血の繋がりなんてない。
帳面を捲るたび。
先代たちの指の跡が——
柚の心に重くのしかかる。
「……お待たせ」
「…………」
柚は沙苗の前に——
小皿を置く。
「…………」
沙苗が肉を口へ運ぶ。
その顔は——
迷子。
來が誰よりも深く——
この店の温度を噛み締めている。
「はははっ!」
道源だけは——
楽しそうに酒を煽る。
「…………」
柚が道源を見る。
自分たちは何百年もかけてきた。
人へ繋ぎ止めてきた——
均衡。
それを一瞬で——
ぶち壊しに来た。
「…………」
柚は怯まない。
道源が——
理を語るなら。
自分は——
日常で返す。
(ここを——)
柚が厨房へ戻る。
(ただの戦場にはさせない)
——スッ——
包丁を握る。
——トンッ——
——トンッ——
——トンッ——
小気味よい音が店内に響く。
灰色の世界に抗う。
それは——
最も力強いヒトの鼓動。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
『輪廻の瑕疵』は、毎日18:00に更新予定です。
※本作は「カクヨム」にも重複投稿しています。
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