第百五話 名前のない器
——コトコト——
「…………」
牛鍋が——
煮えている。
肉。
豆腐。
白滝。
「……」
葱はない。
「…………」
道源は——
箸を持たない。
朱色の盃。
——クルッ——
指先で回す。
「……」
視線の先。
柚。
——カチャッ——
皿を置く。
——トンッ——
徳利を置く。
「はい」
「…………」
道源が見る。
「何?」
「いや」
「……」
「よく働くと思ってな」
「看板娘だからね」
「そうか」
「そうよ」
柚が——
背を向ける。
「…………」
柚の手が止まる。
視線に——
気付く。
「……何よ」
「いや」
「…………」
柚が顔を背ける。
——ゴシゴシ——
卓を拭く。
「柚」
「…………」
——ゴシゴシ——
「柚」
「何よ」
「そこ」
道源が指を差す。
「さっき拭いたぞ」
「…………」
布巾が——
止まる。
「汚れてたのよ」
「そうか」
「そうよ」
「なら」
道源が笑う。
「随分と——」
「……」
「汚れが落ちない卓だな」
「…………」
柚が——
道源を見る。
「何が言いたいの」
「別に」
「……」
——コトッ——
盃を置く。
「ただ」
道源の瞳が——
柚を捉える。
「似ていると思ってな」
「……誰に」
「道舟」
「…………っ」
柚の指が——
止まる。
沙苗が顔を上げる。
「柚?」
「……」
「どうしたの?」
「何でもない」
「でも——」
「何でもないって」
「…………」
道源が笑う。
「そういうところだ」
「……」
「一人で抱える」
「…………」
「誰にも言わん」
柚の瞳が——
僅かに揺れる。
「勝手に背負って」
「……やめて」
「勝手に苦しむ」
「やめて」
「それでも——」
道源が鍋を見る。
「投げ出さん」
「……っ」
柚が——
唇を噛む。
「父さん」
沙苗が眉を寄せる。
「何の話?」
「知りたいか?」
「当たり前でしょ」
「そうか」
道源が——
柚を見る。
「なら」
「……」
「本人に聞け」
「は?」
「…………」
柚が俯く。
「柚?」
「……」
「何なの?」
「…………」
拳が——
握られる。
「私……」
声が——
震える。
「田中じゃないの」
「……え?」
沙苗の目が——
見開かれる。
「血」
柚が呟く。
「繋がってない」
「…………」
「私」
俯いたまま——
笑う。
「拾われたんだ」
「柚……」
「養子」
——コトコト——
牛鍋だけが——
音を立てる。
「…………」
紅葉が——
柚を見る。
血が——
繋がっていない。
家族。
その言葉だけが——
胸へ落ちる。
「でも」
柚が顔を上げる。
「だから何?」
「……」
沙苗が——
目を見開く。
「血が繋がってなかったら」
柚が笑う。
目に——
涙を浮かべて。
「娘じゃないの?」
「…………」
紅葉の瞳が——
揺れる。
「そんなわけないでしょ」
柚が厨房を見る。
「私のお父さんは——」
「……」
「ここにいた」
瞳が僅かに揺れる。
「私の家は」
店内を見る。
古びた柱。
使い込まれた卓。
煮えた牛鍋。
「ここ」
「……」
「私は——」
胸元を握る。
「この店の看板娘」
涙が——
頬を伝う。
「それでいい」
「…………」
「それ以外」
柚が笑う。
「何が要るのよ」
「……っ」
紅葉が——
俯く。
「くくっ」
「何よ」
「いや」
道源が盃を持つ。
「道舟より——」
——グイッ——
酒を飲む。
「よっぽど潔い」
「知らないわよ、そんな人」
「そうか」
「そうよ」
「なら」
空の盃を置く。
「知らんままでいい」
「……?」
道源が——
鍋を見る。
「血なんぞ」
「……」
「ただ流れているだけだ」
「……」
「何を継ぐか」
道源が笑う。
「それを決めるのは——」
「…………」
「自分だ」
——コトコト——
牛鍋が——
煮える。
道源の視線が——
鍋へ落ちる。
「それにな」
「何よ」
「お前は今日」
「……」
「証明してる」
「何を?」
道源が——
鍋を指差す。
「葱」
「…………」
沙苗が見る。
來も見る。
「……ないわね」
「ああ」
道源が笑う。
「何百年経っても」
「……」
「この席には入れんらしい」
柚が——
鼻で笑う。
「当たり前でしょ」
「何故だ?」
「知らないわよ」
「……」
「昔から」
柚が鍋を見る。
「そう決まってるの」
「誰に言われた」
「誰にも」
「なら何故だ」
「だから——」
柚が道源を見る。
「知らないって言ってるでしょ」
「くくっ」
「何がおかしいのよ」
「あはははっ!」
「気持ち悪いわね!!」
「いや」
道源が——
箸を取る。
初めて肉を摘む。
「十分だ」
「……何がよ」
「何でもない」
「…………」
柚が睨む。
「嫌なやつ」
「傷つこうか?」
「よく言うよ」
「あはははっ!」
「五月蠅い!!」
「……」
沙苗が——
鍋を見る。
葱のない牛鍋。
「…………」
「沙苗」
「何よ」
道源が言う。
「食え」
「食べてるわよ」
「そうか」
「父さんが話すから止まってたの!!」
道源が肉を口へ運ぶ。
「冷める前に食え」
「……」
「冷めた牛鍋ほど」
噛む。
「人の世に不要なものはない」
「大袈裟なのよ」
沙苗も——
肉を口へ運ぶ。
「…………」
温かい。
甘い。
少し——
苦い。
「……美味しい」
柚が笑う。
「当たり前でしょ」
「……」
紅葉が——
柚を見る。
血は——
繋がっていない。
それでも家族。
「…………」
紅葉が——
小さく笑う。
——コトコト——
牛鍋が煮える。
血ではない。
理でもない。
誰かに——
決められたものでもない。
ここにいる。
それだけで——
家族になれる。
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