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偽りの王女は、王国を滅ぼしたくない  作者: 安威要


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第9話 伯爵の代理人

 帳簿は燃えた。

 けれど、麦まで燃えたわけではない。


「つまり、運んだ人間がいるはずなのよね」


 私がそう言うと、オズワルドは頷いた。


「おっしゃる通りです。現在、輸送に関わった商会と御者の双方を調べております」

「何か分かった?」

「国が購入した麦の一部が、予定と異なる倉庫へ運ばれていたことは確認できました」

「それなら、その倉庫へ行けばいいのでは?」

「すでに調査しております。ただ、麦は残っておりませんでした」


 私は机に広げられた輸送表を見た。


 国が購入した麦の数量。

 荷車が出発した日付。

 受け取るはずだった地方倉庫の名前。


 数字は並んでいる。

 しかし、肝心の麦がない。


「売ってしまったのかしら」

「その可能性は高いでしょう。ですが、誰の指示で売られたのかが問題です」

「御者は知らないの?」

「途中で運搬先を変更するよう命じられた、と申しております」

「誰に?」

「伯爵家に関係する者から、と」


 オズワルドは別の書類を差し出した。


 そこには、運搬先の変更を申し出た人物について、御者から聞き取った内容が記されていた。


 背格好。

 服装。

 馬の特徴。


 名前はない。


「名前を聞かなかったの?」

「伯爵家の印を示されたため、疑わなかったそうです」

「印があれば、誰の命令か確かめなくてもいいの?」

「本来は確かめるべきです」

「では、その御者も悪いのね」

「手続き上の落ち度はあります。しかし、伯爵家の印を持つ者に逆らうのは、容易ではなかったのでしょう」


 なるほど。


 人間の国では、書類の印一つで麦の行き先まで変わるらしい。

 便利な仕組みだ。

 便利すぎるのかもしれない。


「伯爵に聞いたら?」

「すでに照会しております」

「何て?」

「そのような指示は出していない、と」

「印は?」

「盗用された可能性があるそうです」


 私は黙った。


 随分と都合のよい盗用だった。


 国の麦が消え、帳簿が燃え、伯爵家の印まで勝手に使われたことになっている。


 これだけのことが起きて、伯爵は何も知らないらしい。


「では、印を使った人間を探すしかないのね」

「はい。ですが、関係者の証言は曖昧です。調査を進めるほど、記録のない取引が増えております」


 オズワルドは疲れた顔をしていた。

 最近、この人はよく疲れた顔をしている。

 私が何かを持ち込むたびに、机の上の書類が増えるからだろうか。

 少し申し訳ない気もした。

 しかし、国のお金が消えたのは私のせいではない。


「殿下」


 オズワルドが、書類を揃えながら言った。


「ベルク伯爵への直接の接触は、しばらくお控えください」

「どうして?」

「相手も相当に警戒しております。殿下が動かれれば、残された証拠まで処分されるおそれがあります」

「そう」

「調査はこちらで進めます」

「分かったわ」


 オズワルドは少し意外そうな顔をした。


「……ご理解いただけて、何よりです」


 私は頷いた。

 伯爵に会わなければいいのだ。

 それなら、別の人間に会えばいい。



 その日の午後、リネットがお茶を持ってきた。

 盆には小さな焼き菓子が四つ並んでいた。

 胡桃の入った、私の好きなものだ。


「今日は厨房で焼きたてを分けていただけました」

「そう。ありがとう」


 一つ取って食べる。

 まだ少し温かい。


 やはり、このお菓子はおいしい。


 私は二つ目へ手を伸ばしかけて、止めた。


「リネット」

「はい」

「あなたも食べない?」

「……私が、ですか?」

「ええ」

「ですが、殿下のお菓子でございます」

「四つもあるもの」


 リネットは少し困った顔をした。


「それでしたら、お茶のおかわりをお持ちしたあとで」

「今でいいわ」

「殿下」

「冷めてしまうでしょう?」


 それを聞いて、リネットは笑った。


「では、一つだけいただきます」


 彼女は菓子を手に取り、小さく口へ運んだ。


 嬉しそうだった。


「ありがとうございます、殿下」

「あなたも好きなのでしょう?」

「はい。覚えていてくださったのですね」

「前に聞いたもの」


 私も二つ目を食べた。


 残りは一つになった。


 本来なら、私は四つ全部食べられたはずだ。

 けれど、リネットが食べた分を惜しいとは思わなかった。


 少し不思議だった。


 私がそれを考えていると、リネットが言った。


「殿下は、最近よくお仕事をなさっていますね」

「そう?」

「以前でしたら、帳簿のお話が出ただけで、お顔を曇らせていらしたのに」

「今も好きではないわ」

「そうなのですか?」

「数字がたくさんあるもの」

「ふふっ。では、どうして?」

「見ないと困ることがあるから」


 リネットは、私の答えを聞いて微笑んだ。


「殿下らしいお答えです」

「そうかしら。そうそう、お菓子が一つ残っているわ。リネット、食べてちょうだい」


 本物のエルシアは、帳簿が好きではなかったはずだ。

 私も好きではない。

 できることなら、おいしいお菓子を食べて、のんびり過ごしていたい。

 けれど、その暮らしをこれからも続けるためには、消えた麦とお金の行方を確かめなければならない。

 だから今日も、好きでもない帳簿を読んでいる。


 似ているのか、似ていないのか。

 自分でもよく分からなかった。


 最後の菓子を食べたリネットは、嬉しそうに礼を言って部屋を出ていった。


 私は机の引き出しを開けた。

 中には魔族の資料がある。


 買収予定者名簿。

 王都の商会についての調査記録。

 貴族たちの金の流れ。


 ベルク伯爵の名前は、そのいくつにも登場していた。

 魔族は伯爵を、王国の内部から食糧供給を乱すために利用する予定だったらしい。

 そのため、伯爵が関係する商会や倉庫についても、かなり詳しく調べていた。


 私は王都の地図を広げた。

 西門の近くに、古い保管庫がある。

 以前は伯爵家と取引のある商会が使用していたが、現在はほとんど使われていない場所だ。


 魔族の資料では、人目を避けて取引をするのに適した場所として記されていた。

 確かに、今の私にも都合がよさそうだった。

 伯爵に会ってはならない。


 ならば、伯爵が信用している人間を呼べばいい。

 それも、できるだけ事情を知っている人間が望ましい。


 私は紙を一枚取り出した。

 焼けた帳簿の写しを持っている。

 救済金の支出と麦の取引について、確認したいことがある。

 話をしたければ、二日後の夜、西門近くの旧保管庫へ来ること。


 そこまで書いて、少し考えた。

 これだけでは、伯爵は信用しないかもしれない。

 私はオズワルドから見せてもらった書類を思い出した。


 麦の購入日。

 支払いの番号。

 運搬先が変更された日付。


 そのうち二つを、手紙に書き加えた。

 実際に帳簿を持っていなくても、これなら何かを知っているように見えるだろう。

 差出人の名前は書かなかった。

 封を閉じてから、私は自分の筆跡が残っていることに気づいた。


 これは困る。


 紙を破り、もう一度書き直した。


 今度は、以前見かけた王都の書記の筆跡を真似た。

 本人の名前は知らない。

 けれど、文字の形なら覚えている。


 人間の字を真似るのは、私には難しくない。

 その手紙を、翌日、王都の使い走りを通じて伯爵家へ届けさせた。

 もちろん、王女の姿ではない。


 あとは、相手がどう動くかだった。

 翌日の夕方、私はリネットに早めに休むと伝えた。


「お疲れでございますか?」

「少しね」

「では、今夜はご用がなければお部屋へ伺わないようにいたします」

「ありがとう、朝までしっかり寝るつもりだったから、リネットもちゃんと休むのよ」


 リネットは寝台の帳を整え、部屋を出ていった。


 私はしばらく待った。

 廊下が静かになってから、使用人部屋から拝借した地味な服に着替える。

 王女の衣服は、こういうときには目立ちすぎる。


 鏡の前に立ち、顔を変えた。

 髪を短くし、頬をこけさせる。

 背丈も少し低くした。


 鏡の中には、王宮の下働きにいそうな男がいた。

 問題は服だった。


 顔や体は変えられても、服は変えられない。

 私は改めて、布を身にまとうという人間の習慣を少々面倒に思った。


 用意した上着の袖を直し、頭巾をかぶる。


 王宮には、多くの使用人が出入りしている。

 全員の顔を覚えている者はいない。


 それでも、人に話しかけられると困る。


 私は物を運ぶ使用人たちに紛れ、なるべく人目につかないよう王宮を出た。

 幸い、呼び止められることはなかった。

 ただ、出てこられたからといって、戻れるとは限らない。


 帰りのことは、あとで考えよう。


 西門近くの旧保管庫へ着いたとき、空はすっかり暗くなっていた。

 私は裏手から中へ入った。


 長く使われていない建物らしく、床には埃が積もっている。

 壁際には空の木箱が積まれ、奥には荷を仕分けるための小部屋があった。


 小部屋は木箱の列を隔てた奥まった位置にあり、保管庫の入口からは離れていた。

 扉を閉めれば、中の様子も見えない。


 私はそこで待つことにした。

 やがて、外から荷車の音が聞こえた。


 続いて、複数の足音。

 一人ではない。


 私は木箱の陰から入口を見た。

 入ってきたのは、年配の男と、剣を帯びた大柄な男だった。

 さらに、武装した男たちが四人いる。


 年配の男は、上等な服を着ていた。

 立ち居振る舞いも落ち着いている。


 おそらく執事だろう。

 大柄な男は護衛長らしい。

 周囲を確かめる視線に無駄がない。

 残りの護衛たちは、入口と荷車の近くに分かれた。


 なるほど。


 伯爵は自分で来なかった。

 その代わりに、信用できる人間を寄越したらしい。


 私の予想より、少し人数が多い。


「手紙の主はどこだ」


 護衛長が低い声で言った。


 私は木箱の陰から姿を現した。


「私です」

「お前が手紙を出したのか」

「ええ」

「帳簿の写しを持っているそうだな」

「あります」

「見せろ」


 護衛長は私へ近づかなかった。

 こちらの様子を注意深く見ている。


「ここにはありません」

「何?」

「奥の部屋です」

「持ってこい」

「それが、少し量が多くて」


 嘘だった。


 私は写しなど持っていない。


「どの程度ある?」

「木箱一つ分ほど」

「……随分と集めたものだな」


 護衛長は執事を見た。


「どうしますか」

「まず、実物を確かめてください。閣下は内容を確認するよう仰せでした」


 執事はそう答えた。


 護衛長は頷き、部下へ命じた。


「二人は入口を見張れ。残りは外だ。誰も勝手に入れるな」

「はっ」


 それから私へ向き直った。


「案内しろ」

「こちらです」


 私は小部屋へ入った。


 護衛長は、すぐには続かなかった。

 入口から室内を確かめ、剣を抜いてから足を踏み入れる。


 そして、後ろ手に扉を閉めた。

 どうやら、書類の内容を部下に聞かせるつもりはないらしい。


 用心深い男だった。


「書類はどこだ」

「あちらです」


 私は奥に置かれた木箱を指した。


 護衛長は剣を構えたまま、そちらへ進んだ。


「開けろ」

「はい」


 私は木箱の前に膝をついた。

 蓋に手をかける。

 その瞬間、護衛長が言った。


「妙だな」

「何がです?」

「本当に帳簿を持っているなら、なぜ伯爵家へ直接持ってこなかった」


 私は振り返った。


「その方が、困る人がいるでしょう?」

「誰だ」

「あなた方です」


 護衛長の剣が動いた。


 速い。


 私は体をひねり、刃を避けた。

 服の袖が裂ける。


 男は間を置かずに踏み込んできた。


 どうやら、最初から私を無事に帰すつもりはなかったらしい。


 それなら、こちらも遠慮する必要はない。

 私は人間の姿に収めていた腕を変形させた。


 護衛長が予想した位置には、もう私の肩がない。


 剣が空を切る。


 懐へ入り込み、男の利き腕を押さえた。


「なっ……!」


 護衛長は体をひねって逃れようとした。

 私はその動きに合わせ、彼を木箱へ押しつける。


 剣の柄が床を打った。


 男は叫ぼうとした。


 その前に、私は彼の口元へ手を伸ばした。


 指先が細く伸びる。


 人間の指とは違う、一本の管のような形になっていく。


 護衛長の目が見開かれた。


 私はその指を、男の口の中へ差し入れた。


 生きている人間の脳を、取り込む。


 魔族から教えられた、私の能力だ。


 生きているうちでなければ、記憶は得られない。


 護衛長はしばらく抵抗した。


 やがて、その力が抜けた。


 私の中に、知らない記憶が流れ込んできた。



 訓練場が見えた。


 若い兵士たち。

 剣を持った教官。

 何度も繰り返した足運び。


 剣を振り下ろす感覚。

 相手の構えを見て、次の動きを予測した経験。


 それから、伯爵家での仕事。


 麦を積んだ荷車。

 夜中に変更させた運搬先。

 御者を脅したこと。

 帳簿を保管していた建物に、部下を向かわせたこと。


 あの火事にも、関わっていたらしい。


 さらに、伯爵からの命令があった。


 今夜の手紙の主を捕らえること。

 持っている記録を回収すること。

 余計なことを知っているようなら、口を封じること。


 なるほど。


 本当に、私を帰すつもりはなかったのだ。


 それなら仕方がない。


 私は床に倒れた護衛長を見た。


 少し前まで、この男は生きていた。


 今はもう動かない。


 けれど、私は彼の名前も、仕事も、剣の使い方も知っている。


 便利だ。


 まず、そう思った。


 魔族が私にこの能力を教えた理由が、よく分かる。


 私は男の姿へ変わり、服と剣を借りた。


 記憶の中にある通り、剣を腰へ下げる。

 重さも、柄に触れる手の位置も分かる。


 ただ、知っているからといって、すぐに同じように戦えるとは限らない。


 少し動いてみた。


 なるほど。

 人間の動作を真似るのは、昔から得意だ。


 これなら、少なくとも不自然には見えないだろう。


 私は小部屋の扉を開けた。


「どうでした?」


 待っていた執事が尋ねた。


「書類はありました」


 護衛長の声で答える。


「ただ、少々厄介です」

「どういうことです?」

「焼けた帳簿だけではありません。閣下が別に保管している支払いの控えについても、記されています」

「……何ですって?」


 執事の表情が変わった。


「確かめていただきたい」

「ここへ持ってこられないのですか」

「名前と数字を確認していただく必要があります。私では分かりません」


 執事は少し考えた。


 それから、外の護衛へ言った。


「ここで待っていなさい。すぐに戻ります」

「承知しました」


 私は執事を小部屋へ案内した。


 扉を閉める。


 執事は床に倒れている男を見た。


「これは……」


 振り返った執事の目に、護衛長の姿をした私が映っている。


「何を……」


 私は答えなかった。


 指先を、もう一度細く伸ばす。


 今度は、先ほどより静かに済んだ。



 執事の記憶は、護衛長のものとは随分と違っていた。


 長い廊下。

 磨かれた銀器。

 朝の食卓。

 書類の山。

 主人の予定を記した手帳。


 伯爵家で働き始めた日のこと。


 若かったベルク伯爵。

 屋敷へ迎えられた夫人。

 生まれたばかりの子供。


 その家族が何を好み、何を嫌うのか。

 どの部屋を使い、どこに鍵をしまうのか。


 すべて知っている。


 さらに、伯爵の裏の仕事についても記憶があった。


 別の名義へ移された救済金。

 官吏へ渡された金。

 商会との取引。

 焼却を命じられた帳簿。


 執事は、それらを長年管理していた。


 何も知らずに仕えていたわけではない。


 それでも、伯爵を裏切るつもりはなかったらしい。


 奇妙なものだ。


 伯爵が幼い子供を抱き上げた日のことも、救済金を別の口座へ移すよう命じた日のことも、この男にとっては同じ主人との思い出だった。


 私はそのどちらも知っている。


 けれど、自分が体験した出来事ではない。


 記憶だけが、私の中に増えていた。


 私は執事の姿に変わった。


 服を整える。

 襟元を直し、袖の皺を伸ばす。


 鏡はなかったが、姿を真似ることに問題はない。


 執事は身支度にうるさい男だったらしい。

 私まで襟が曲がっていることが気になった。


 これは、少し困る。


 私は倒れた二人を木箱の陰へ移した。


 見つからないようにするためではない。


 いや、正確には、今すぐ見つからないようにするためだ。


 いずれは見つかるだろう。


 護衛長も執事も、伯爵家では知られた人間だ。

 帰らなければ探される。


 遺体を見つければ、誰かが騒ぐ。


 その前に、伯爵へ会う必要があった。



 小部屋を出ると、護衛の一人が近づいてきた。


「いかがでしたか」

「書類の内容は確認した」


 私は執事の声で答えた。


「差出人は?」

「裏手から逃げた。護衛長が追っている」

「我々も加勢いたしましょうか」

「護衛長から、ここを離れるなと言われている。戻れば指示があるはずだ」


 護衛たちは顔を見合わせた。


 護衛長の記憶によれば、彼は部下が勝手に判断することを嫌う。

 命令にないことをすれば、厳しく叱責する男だった。


 その点は、利用できる。


「私は先に閣下へ報告する。二人はこの場で護衛長を待ちなさい。残りは馬車を用意して」

「承知しました」


 護衛たちは動き始めた。


 一人が小部屋の方を見た。


 私はその視線に気づいた。


「中の書類には触れないように。閣下のご命令があるまで、そのまま保管する」

「はっ」


 これで、少しは時間を稼げるだろう。

 ただし、護衛長がいつまでも戻らなければ、当然探しに来る。

 中を見れば、二人の遺体が見つかる。

 私が執事としてここを出たことも、護衛たちは覚えているはずだ。

 このままでは、伯爵家へ報告が届くのも時間の問題だった。


 私は馬車へ乗り込んだ。

 座席に腰を下ろすと、思っていたより自然に体が落ち着いた。

 この執事は、何度もこの馬車に乗っていたのだ。

 膝を置く位置。

 揺れたときに手を添える場所。

 窓から見える街並み。


 全部知っている。

 私は一度も乗ったことがないのに、しっかりと記憶にある。


 馬車が動き始めた。

 王都の石畳を、車輪が叩いている。

 私は窓の外を眺めながら、執事の記憶を整理した。

 ベルク伯爵の書斎は、屋敷の奥にある。


 夜はそこで書類を読むことが多い。

 執事が報告に来ても、不審には思わない。


 むしろ、今夜は私が戻るのを待っているはずだった。


 伯爵は、帳簿の写しが残っていることを恐れている。

 それなら、こちらにも聞きたいことがある。


 執事は横領の仕組みを知っていた。

 隠し財産の場所も、いくつかは知っている。


 だが、すべてではない。


 魔族との取引については、知らされていない部分があった。


 伯爵が一人で会っていた商人。

 詳しい名前も素性も、執事の記憶には残っていない。


 どうやら、伯爵は自分の執事にさえ隠し事をしていたらしい。

 長年仕えてきた相手なのに。

 人間の信頼というものは、なかなか難しい。

 まあ私も魔族に会うときは一人だったから、人のことは言えないのだが。


 馬車が曲がった。

 執事の記憶にある通り、伯爵邸へ向かう道だった。

 門が見えてくる。

 私は袖口を整えた。

 今夜、伯爵から必要なことを聞き出せるだろうか。


 相手は、あの笑顔の伯爵だ。

 証拠がなければ罪にはできないと、何度も言っていた。


 素直に答えるとは思えない。

 ただ、答えてもらえなくても構わない。

 私は、別の方法を知っている。


 馬車が伯爵邸へ入ると、門番が頭を下げた。


「お帰りなさいませ」

「閣下は?」

「書斎にいらっしゃいます」

「承知した」


 私は馬車を降り、屋敷へ入った。

 使用人たちが挨拶をする。

 私も執事の記憶にある通りに返した。


 誰も、不思議そうな顔をしない。


 廊下の角を曲がる。

 階段を上がる。

 長い絨毯の敷かれた通路を進む。


 初めて来た屋敷なのに、迷わなかった。

 途中で、一人の若い使用人が声をかけてきた。


「旦那様がお待ちです」

「分かっている。お茶は?」

「先ほどお持ちしました」

「それなら結構」


 自然に答えられた。

 この使用人の名前も知っている。

 執事が雇い入れたときのことまで覚えていた。


 私自身は、今初めて会ったというのに。

 すれ違ってから、私は少しだけ振り返った。


 使用人は何も気づかず、廊下の向こうへ歩いていった。

 なるほど。

 他人の記憶まで手に入れれば、その人間として暮らすことは難しくないらしい。

 少なくとも、知らない相手を相手にするよりずっと簡単だ。


 だから魔族は、私に本物のエルシアを喰らわせようとしていたのだろう。


 あの計画が完成していれば、ガルドの昔話にも困らなかったはずだ。

 私は足を止めた。

 目の前には、重そうな木の扉がある。

 ベルク伯爵の書斎だ。


 執事の記憶によれば、伯爵は仕事を邪魔されることを嫌う。

 ただし、今夜の報告は別だ。


 待っているはずだった。

 私は扉の前に立ち、軽く叩いた。


「入れ」


 聞き覚えのある声が返ってきた。

 あの晩餐会で、最後まで笑っていた男の声だ。

 私は取っ手に手をかけた。


「失礼いたします」


 執事の声で答え、扉を開けた。

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