第6話 ありがとうと言われても
麦が届いたことで、思いがけない問題が一つ増えた。
私を見知った人間が増えたのだ。
これまでは王宮の自室と中庭のあたりにしか生息していなかったのに、麦の件で宰相の執務室や役所に顔を出すようになったせいだろう。
王宮の廊下を歩けば、すれ違う文官が以前より丁寧に頭を下げる。
役所へ顔を出せば、担当官がこちらの用件を聞く前に帳簿を用意してくれる。
便利になったのは確かだった。
ただ、どうにも落ち着かない。
王女として三か月を過ごしてきたが、これまでは大抵の人間が私を見ても礼をするだけだった。
それが最近では、目を合わせて笑う者までいる。
笑われているのか、何かを期待されているのか、よく分からない。
私は本物のエルシアではない。
あまり詳しく見られると、覚えきれていない仕草や癖から偽物だと気づかれるかもしれない。
そう思うと、つい相手の目を避けてしまう。
「殿下、よいお知らせがございます」
そんな日々の中、朝の支度を終えたところで、リネットが一枚の紙を持ってきた。
「何?」
「市場の商人の方々から、お礼のお手紙が届いております」
「お礼?」
「はい。こちらです」
受け取って読んでみる。
王都の市場で商売をしている者たちからの礼状だった。
東街道からの輸送が始まり、麦の仕入れに見通しが立ったこと。
官営倉庫からの供給によって、価格の上昇が落ち着き始めたこと。
そして、第二王女の尽力に感謝すること。
なるほど。
書かれていることは、概ね事実だった。
ただ、私が麦を運んだわけではない。
あれは荷車を動かした人間たちの仕事だ。
「これ、どうすればいいの?」
「お返事を差し上げるのがよろしいかと」
「返事?」
「ええ。お礼のお手紙には、お礼を返すものですから」
礼に礼を返す。
そうすると、また礼が届くのではないだろうか。
いつ終わるのか分からないやり取りだ。
「何と書けばいいの?」
「殿下のお言葉でよろしいと思います」
「それが分からないのだけれど」
リネットは少し笑った。
「では、私がお手伝いいたしますね」
結局、返事には市場の人々の協力に感謝していることと、今後も食糧の流通を安定させるために努力することを書いた。
リネットが文面を整え、私は最後に署名した。
エルシア・アルヴェルト。
何度も練習した名前だ。
今では考えなくても書ける。
リネットは出来上がった手紙を見て、満足そうに頷いた。
「きっと皆様、お喜びになりますよ」
「そうかしら」
「ええ。殿下からのお返事ですもの」
そこまで喜ばれる理由は分からなかった。
私はただ、相手から手紙をもらったので返事を書いただけなのだが。
その日の午前中、オズワルドから報告が届いた。
東街道を使った試験輸送は、二度目も無事に完了したらしい。
途中の町で荷を引き継ぐ方法には、まだ時間と費用の問題がある。
しかし、長距離を通して運べる商会がなくても、少量なら王都へ麦を届けられることは確認できた。
河川輸送についても、増便の条件がまとまりつつある。
私は報告書を読みながら、机の上の地図へ目を移した。
西街道。
東街道。
川。
三つの経路のうち、西が止まっても残りの二つがある。
もちろん、東と川だけで王都全体を養えるわけではない。
魔族の資料に書かれていた危険が、完全になくなったわけでもなかった。
けれど、以前は西が止まれば、それに代わる輸送をすぐには始められなかった。
今は荷を運べる業者が分かっている。
途中で使える倉庫も確認できた。
王都の東側には、実際に麦が運び込まれている。
少なくとも、何もできずに食事がなくなるのを待つ必要はなくなった。
それは、かなり大きな進歩だと思う。
「殿下、お茶をお持ちいたしました」
リネットが盆を運んできた。
茶器の横には、小さな胡桃の焼き菓子が並んでいる。
「ありがとう」
「今日は厨房の者が、少し多めに焼いてくれたそうです」
「そうなの?」
「はい。殿下が最近お忙しいので、お好きなものをと」
私は焼き菓子を見た。
以前は、エルシアが好まないという理由であまり出されなかったものだ。
それが今では、私の好きなものとして用意されている。
この変化はありがたい。
「厨房の人にも、お礼を伝えておいて」
「承知いたしました」
リネットが嬉しそうに頷いた。
私は焼き菓子を一つ口へ運んだ。
胡桃の香ばしさと、控えめな甘さ。
やはり、これはおいしい。
麦がなくなれば、こうした菓子も食べられなくなるのだろう。
そう考えると、今回の仕事は十分に意味があった。
午後には、試験輸送に関する報告を確認するため、再び役所へ向かうことになった。
今回はガルドが護衛についた。
馬車に乗り込む前、彼が私の持つ書類に目を留めた。
「殿下。また帳簿でございますか」
「ええ」
「随分と熱心ですな」
「必要だから」
「それは結構なことですが」
ガルドは少し笑った。
「昔の殿下は、帳簿を見るくらいなら馬に乗る、と仰っていましたが」
私は動きを止めた。
馬。
そういえば、エルシアが乗馬を好んでいたという話は、以前にも聞いた気がする。
ただ、どの馬に乗っていたのかまでは知らない。
それどころか、最後に厩舎へ行ったのがいつなのかも分からなかった。
エルシアの仕草や話し方は覚えたが、日々の習慣については知らないことが多い。
こういうとき、記憶がないのは不便だ。
「……人は成長するものです」
少し考えてから、そう答えた。
ガルドは目を細めた。
「ほう。成長、ですか」
「ええ」
「なるほど。確かに、殿下もいつまでも幼いままではありませんな」
彼は穏やかに笑った。
これで済んだのだろうか。
そう思ったところで、ガルドが続けた。
「ただ、少々寂しくもあります」
「なぜ?」
「馬に乗っていらっしゃるときの殿下は、実に楽しそうでしたからな」
私は返事に困った。
本物のエルシアは、馬に乗るのが好きだったらしい。
ガルドは、その姿を何度も見てきたのだろう。
しかし、私は知らない。
同じ顔で笑うことはできても、そのとき何が楽しかったのかまでは分からない。
「また乗ればいいでしょう」
そう答えると、ガルドは少し驚いた顔をした。
「それは、ぜひ」
「……今すぐではないわよ」
「承知しております」
彼は笑った。
ただ、その後も私の顔を見ていた。
以前より長くなった気がする。
私は書類を抱え直し、馬車へ乗り込んだ。
役所では、輸送の実績を確認した。
出発した麦の量。
途中の倉庫で引き継いだ量。
王都へ到着した量。
数字は一致している。
輸送にかかった時間も、二度目は少し短くなっていた。
荷を引き継ぐ場所で、あらかじめ次の荷車を待たせるようにしたかららしい。
「最初は荷車が揃わず、半日ほど待たせてしまいましたので」
担当官が説明する。
「今回は、到着する時刻に合わせて手配いたしました」
「なるほど」
「ただ、雨が降れば街道の状態も変わります。毎回この通りにいくとは限りません」
「それなら、雨の日にどれくらい遅れるのかも知りたいわ」
「……雨の日、ですか」
「ええ」
担当官は少し考えた。
「過去の記録を調べれば、ある程度は分かるかもしれません」
「お願いできる?」
「承知いたしました」
彼はすぐに書き留めた。
以前なら、別の部署へ行くように言われたところだろうか。
少なくとも、今日はその必要がなかった。
用件を終えて部屋を出ると、廊下で若い書記に呼び止められた。
「殿下」
「何?」
「その……このたびは、ありがとうございました」
書記は深く頭を下げた。
「私は輸送の記録を担当しておりまして。今回の仕事で、これまで別々だった記録を整理することになったのです」
「大変だったでしょう」
「はい。正直なところ、最初は面倒だと思いました」
正直な人だ。
「けれど、実際に荷が届いたときは、少し嬉しくなりまして」
「そう」
「自分の書いた数字が、本当に麦になって王都へ届いたのだと思うと」
書記は照れたように笑った。
「妙な話をしてしまいました。失礼いたします」
彼はもう一度頭を下げ、足早に去っていった。
私はその背中を見送った。
帳簿に数字を書いたのは、あの人間だ。
私が命じたわけでもない細かな記録を、きちんと残していた。
だから、荷がどこを通ったのか確かめることができた。
ありがとうと言うなら、私の方かもしれない。
そう思ったときには、書記の姿はもう廊下の向こうへ消えていた。
馬車へ戻る途中、ガルドが声をかけてきた。
「随分と、皆に慕われるようになりましたな」
「そうかしら」
「ええ。少なくとも、以前より殿下のお名前を耳にすることが増えました」
私は少し身構えた。
「困ったこと?」
「いいえ。王族が官民に慕われるのは、喜ばしいことです」
「なら、よかったわ」
「……ただ」
ガルドはそこで言葉を切った。
「何?」
「いえ。殿下も随分とお変わりになったものだと」
「前にも聞いたわ」
「そうでしたな」
彼は微笑んだ。
それから、私の抱える帳簿へ目を落とした。
「以前は見向きもなさらなかったものを、今では大切そうに抱えていらっしゃる」
「必要なものだから」
「ええ。それは分かっております」
ガルドは頷いた。
「ただ、何が殿下をそこまで変えたのか。それが少々、気になりましてな」
私は何も言わなかった。
魔族の責任者が死んだから。
命令がなくなったから。
王国が滅びれば、私の居場所もなくなるから。
理由ならいくつもある。
けれど、そのどれも答えられない。
「……勉強したのよ」
結局、そう言った。
ガルドは私を見た。
「左様ですか」
「ええ」
「それは、よいことでございますな」
彼はそれ以上尋ねなかった。
ただ、馬車の扉を閉める直前まで、私の顔から目を離さなかった。
自室へ戻ったときには、すでに夕方になっていた。
机に書類を置き、椅子へ腰を下ろす。
ようやく一息つけた。
今日一日で、何人から礼を言われただろう。
名前も知らない文官。
役所の担当者。
市場から届いた手紙。
そして、マルタ。
みんな、私に感謝しているらしい。
けれど、私は自分の食事を守るために動いただけだ。
相手が感謝する理由は分かる。
麦が届かなければ、困るのだから。
分からないのは、それを聞いた周囲の人間まで喜ぶことだった。
「殿下、お疲れさまでございました」
リネットが茶を置いた。
「ありがとう」
「本日も随分とお忙しかったようですね」
「そうね」
「でも、お仕事が順調で何よりです」
リネットは笑った。
朝から何度も見た表情だった。
「リネット」
「はい」
「あなたが喜ぶ理由が分からないの」
「……はい?」
「麦が届いたのは、あなたの食事にも関係するから?」
リネットは目を瞬かせた。
「もちろん、それもございますが」
「ほかにも?」
「殿下が褒められておりますから」
「私が?」
「ええ」
「でも、あなたが褒められたわけではないでしょう?」
「そうですね」
リネットは笑ったまま頷いた。
「それでも、嬉しいものですよ」
「どうして?」
「毎日おそばにいる殿下が、皆様から感謝されているんですもの」
なるほど。
いや、分からない。
自分が褒められたのなら、嬉しいのは理解できる。
しかし、他人が褒められて嬉しいというのは、妙な話だ。
「それに、私は存じておりますから」
「何を?」
「殿下が、どれほど頑張っていらっしゃったかです」
リネットは机に積まれた書類を見た。
「役所を歩き回って、帳簿を読んで、夜遅くまで考えて。ようやく麦が届いたのでしょう?」
「そうね」
「だから、皆様に喜んでいただけて、私も嬉しいんです」
リネットは当然のことのように言った。
私は茶器へ目を落とした。
温かい茶が入っている。
私が戻る時刻に合わせて用意してくれたのだろう。
「あなたも、役所をずいぶん歩いたわ」
「はい。あの日は足が痛くなりました」
「書類も運んでくれた」
「それも侍女のお仕事ですから」
「それに、毎日お茶を淹れてくれる」
「……そちらは、いつものことでございますね」
リネットが少し不思議そうな顔をした。
私は茶器を持ち上げた。
「ありがとう、リネット」
彼女は一瞬、動きを止めた。
「……どうなさいました?」
「あなたにも、お礼を言った方がいいと思ったの」
「そんな。私は何も」
「でも、手伝ってくれたでしょう」
リネットは口を閉じた。
それから、少しだけ視線を落とした。
「……ありがとうございます、殿下」
なぜ、礼を言い返されるのだろう。
やはり人間の礼は、なかなか終わらないらしい。
私は茶を一口飲んだ。
ちょうどよい温度だった。
リネットはいつも通り、少し離れたところに立っている。
ただ、先ほどから口元が緩んでいるように見えた。
何かおかしなことを言っただろうか。
聞こうかと思ったが、やめておいた。
別に、困ることでもない。
その翌朝、オズワルドから面会の申し出があった。
今度は、私から頼んだわけではない。
「宰相閣下が?」
「はい。殿下にご相談したいことがあるそうです」
リネットが知らせに来た。
「麦のことかしら」
「用件までは伺っておりません」
「そう」
東街道の輸送について、また何か問題が起きたのだろうか。
それとも、川の輸送費用が高すぎたのかもしれない。
私は机に置いてあった報告書を手に取った。
必要なら、すぐに数字を確かめられるようにしておいた方がいい。
ほどなくして、オズワルドがやってきた。
いつものように礼を述べ、席を勧めると静かに腰を下ろす。
ただ、今日は持っている書類が少なかった。
薄い帳簿が一冊だけだ。
「殿下。まずは、先日の食糧輸送についてご報告を」
「何か問題が?」
「いえ。試験輸送は今後も継続することになりました。東側倉庫の運用についても、担当部署で正式に手続きを進めております」
「それはよかったわ」
「殿下のご提案がなければ、ここまで早く着手することはなかったでしょう」
オズワルドは小さく頭を下げた。
「感謝いたします」
まただ。
今日は宰相まで礼を言うらしい。
「……どういたしまして」
とりあえず、覚えた返事をしておいた。
「ところで、殿下」
オズワルドは帳簿を机へ置いた。
「今回の調査で、少々気になることが見つかりましてな」
「麦のこと?」
「いいえ。今度は金の話です」
「お金?」
「はい。王国の財政に関する記録です」
彼は帳簿を開いた。
並んでいるのは、収入と支出を示す数字だった。
私がこれまで見てきた麦の帳簿とは、項目が違う。
それでも、数字を比べることはできる。
「食糧輸送に使った費用を確認するため、関連する支出の記録を調べさせました。その過程で、説明のつかない支出が見つかったのです」
「間違いではないの?」
「その可能性も調べております。しかし、記録を突き合わせても、どうにも合いません」
オズワルドは一つの数字を指した。
「この金額が、実際の支出と一致しないのです」
「使い道が分からない?」
「その通りです」
私は帳簿を覗き込んだ。
確かに、記録された金額と、別の頁にある支払いの記録が一致していない。
しかも、ずれは一か所だけではなかった。
「随分と多いわね」
「ええ」
オズワルドの声が低くなった。
「少々、では済まない金額です」
「それで、私に?」
「殿下は先日、書類に書かれていない決まりを理由に倉庫を動かせないのはおかしい、と仰ったそうですな」
「ええ」
「ならば、今度は書類に書かれているのに、実際には存在しない金について、どうお考えになるかと」
私は改めて帳簿を見た。
麦なら、倉庫へ行けば残っているか確かめられる。
荷車なら、道を通っているところを数えればよい。
では、帳簿に書かれた金は、どこへ行けば確かめられるのだろう。
「これ、誰が管理しているの?」
そう尋ねると、オズワルドはわずかに目を細めた。
「そこからお調べになりますか」
「だって、金がなくなったなら、最後に持っていた人がいるでしょう?」
「……なるほど」
彼は静かに頷いた。
「では、その点から始めましょう」
私は帳簿を見直した。
王都の食糧を守るために麦を調べていたはずが、今度は王国の金を調べることになるらしい。
人間の国は、随分と問題が多い。
しかも、なくなった金額は、麦を運ぶ費用など比較にならないほど大きかった。




