第5話 偽物の王女、麦を運ぶ
麦を動かす前に、紙を動かす必要があった。
宰相から渡された書類を持って役所へ行ったところ、最初にそう教えられた。
「こちらは記録の閲覧と照会を認める書類でございます。物資の移動については、別途許可が必要になります」
「知っているわ」
「でしたら、まず搬出する物資と数量をお決めいただき、それから輸送の申請をお願いいたします」
「その数量を決めるために、帳簿を見に来たのだけれど」
「……なるほど」
担当官は書類を見直した。
「では、まず倉庫の管理記録からでしょうか」
「ええ」
「そちらは別の部署になります」
私はリネットを見た。
リネットは笑顔で頷いた。
どうやら、こういうものらしい。
結局、三つの部屋を回って、ようやく目的の帳簿にたどり着いた。
厚い帳簿が机に積まれ、担当の書記が必要な頁を開いてくれる。
王都の官営倉庫には、それなりの量の麦が残っていた。
ただし、問題もあった。
「この倉庫と、こちらの倉庫。ずいぶん近いのね」
「はい。どちらも西門に近く、荷車の出入りに便利な場所でございます」
「ほかの倉庫は?」
「東側にもございますが、現在は利用が少なくなっております」
「なぜ?」
「主要な商会が西側の倉庫を利用しておりますので」
私は地図を広げた。
西街道から入った麦は、西門近くの倉庫へ運ばれる。
そこから市場や商会へ分配される。
確かに便利だ。
しかし、魔族が狙うなら、これほど都合のよい配置もない。
「東側の倉庫は使えるの?」
「使えますが、現在は管理の人員が少なくなっております」
「増やせばいいでしょう」
「そのためには、管理部署へ人員の追加を申請する必要がございます」
「その申請は?」
「別の部署でございます」
またか。
人間の国では、麦より書類の方が遠くまで旅をするらしい。
私は必要な記録を書き写してもらい、次の部署へ向かった。
リネットは隣で書類を抱えている。
「殿下、少々お休みになられては?」
「まだ大丈夫よ」
「もう二時間ほど歩いております」
「そうなの?」
「ええ。王宮のお散歩より、ずっと長く歩いていらっしゃいます」
そう言われると、確かに足が疲れていた。
王女の靴は、役所を歩き回るためには作られていないらしい。
「次は歩きやすい靴にするわ」
「……次もお越しになるのですか?」
「まだ終わっていないもの」
リネットは何か言いかけたが、結局、黙ってついてきた。
ところが、次の部署では申請を受け付けてもらえなかった。
「東側の倉庫を使いたい、ですか?」
担当官は私の書類を見て、眉を寄せた。
「はい。しかし現在、そちらの利用には調整が必要でございまして」
「使われていないのでしょう?」
「それは、そうなのですが」
「何か問題が?」
「既存の商会との契約がございます」
担当官は別の書類を取り出した。
そこには、王都の有力な穀物商会の名前が書かれていた。
先日、市場で何度も見た印の商会だった。
「西側の倉庫を利用している商会ね」
「はい。倉庫の利用については、こちらの商会を通じて調整する取り決めがございまして」
「東側も?」
「……長年、そのように運用しております」
私は書類を読んだ。
確かに、西側の倉庫については商会との契約がある。
しかし、東側の倉庫については、同じ条件が書かれていない。
「この契約、東側の倉庫は含まれていないわね」
「それは……」
「なら、そちらを使えばいいでしょう」
「ですが、従来の手続きでは」
「その手続きは、どこに書いてあるの?」
担当官が黙った。
私には、人間の法律がすべて分かるわけではない。
ただ、書類に書かれていることなら読める。
そして、書かれていないことまで守る必要があるのかは、確かめた方がいいと思う。
「使えない理由を、書面で教えてもらえる?」
「書面、でございますか」
「ええ。どの決まりがあって、誰の許可が必要なのか。それが分かれば、宰相に相談できるわ」
担当官の顔色が変わった。
「い、いえ。そこまでしていただく必要は」
「でも、必要なのでしょう?」
「……少々、お待ちください」
彼は奥の部屋へ消えていった。
しばらくして戻ってきた担当官は、先ほどより丁寧な口調になっていた。
「東側倉庫につきましては、官の備蓄を受け入れる場合、商会との調整を経ずに利用できるようでございます」
「そう」
「ただし、管理責任者の承認は必要になります」
「それなら、申請するわ」
「承知いたしました」
ようやく一つ進んだ。
別に、担当官を困らせたかったわけではない。
私は麦を置く場所が欲しいだけなのだから。
役所を出たところで、リネットが小さく息を吐いた。
「殿下、先ほどは少し驚きました」
「何が?」
「担当官の方へ、随分とはっきり仰いましたので」
「書類に書いていなかったもの」
「それは、そうなのですが」
リネットは困ったように笑った。
「以前の殿下でしたら、あのような場面では、お付きの者にお任せになっていたと思います」
また、以前のエルシアだ。
胡桃が苦手で、一度言い出すと譲らず、役所の交渉は人に任せる。
少しずつ、知らないエルシアの姿が見えてきた気がする。
できれば、私が失敗する前に教えてほしい。
「自分で聞いた方が早いでしょう」
「……確かに、今回はそうでしたね」
リネットが頷く。
ただ、その視線が一瞬だけ私の顔に留まったのは、気のせいではないと思う。
問題は倉庫だけではなかった。
翌日、輸送を担当する商会から返事が届いた。
東街道を使った麦の試験輸送について、荷車を用意できないというものだった。
「荷車がない?」
私は書面を読み直した。
「はい。現在、各商会とも輸送の予定が詰まっているそうです」
オズワルドは淡々と答えた。
再び訪れた宰相の執務室には、前回と同じように書類が積まれている。
「一台も?」
「長距離の輸送に回せる車は、すぐには確保できないとのことです」
「それは本当?」
「さて。商会側の回答はそうなっております」
オズワルドは私を見た。
「何か、お心当たりでも?」
あった。
魔族の資料には、王都の有力商会についても詳しく書かれていた。
どの商会が、どの貴族と親しいか。
どの役所に影響力を持っているか。
そして、買収すれば協力する可能性が高い官吏の名前まで。
昨日、倉庫の利用を渋った担当官の名前も、その中にあった。
もっとも、名前が載っているだけで、その人間が実際に金を受け取ったと決めつけるわけにはいかない。
魔族に買収される予定だったというだけだ。
まだ買収されていない可能性もある。
ただ、商会と役所の関係を調べるには、便利な資料だった。
「ほかの商会には頼めないの?」
「小規模な輸送業者はおります。ただし、東街道を通る長距離の輸送となると、引き受けられる者は限られます」
「全部を一度に運ぶ必要はないわ」
「と、申されますと?」
「途中で荷を引き継げない?」
オズワルドが少し考えた。
「荷継ぎですか」
「ええ。東側の町から途中まで運んで、そこで別の荷車に載せ替えるの」
「可能ではあります。しかし、積み替えの費用が増えます」
「最初は少量でしょう?」
「……そうですな」
「それなら、試してみればいいと思うの」
オズワルドは机の上の地図を広げた。
東街道沿いには、いくつか町がある。
そのうちの一つには、官の管理する小さな倉庫があった。
「ここを使えるでしょうか」
「調べれば分かるわ」
「殿下は、本当に簡単に仰る」
「難しいなら、できる範囲でいいのよ」
彼は少し笑った。
「それなら、検討してみましょう」
さらに、私はもう一つ提案した。
輸送を断った商会にも、改めて条件を示して募集することだ。
ただし、特定の商会だけに頼むのではなく、引き受けられる業者を広く募る。
必要な荷車の数。
輸送する距離。
支払う費用。
それらを明らかにした上で、条件の合う業者と契約する。
「なるほど。正式な募集であれば、既存の商会も無視しにくくなりますな」
「無理に頼む必要もないでしょう?」
「ええ。応じる業者がいれば、そちらへ任せればよい」
オズワルドは頷いた。
「費用が予定の範囲に収まるなら、試す価値はあります」
それからの数日は、書類を読む時間が増えた。
東側の倉庫については、管理責任者の承認が下りた。
輸送業者も、最初は集まらなかったが、条件を分けて募集すると、引き受ける者が現れた。
長距離を一度に走る荷車は少なくても、途中の町までなら運べる業者がいる。
そこから先を別の業者に任せればよい。
費用は少し増える。
しかし、西街道が使えなくなったときの備えとしては、十分に意味がある。
もちろん、すべてが順調だったわけではない。
倉庫の使用許可が遅れたり、荷車の手配が変更になったりした。
何度も同じ書類を確認することになった。
そのたびに、私はオズワルドへ報告した。
彼は必要な指示を出し、役所の担当者に処理を進めさせた。
便利な人だと思う。
もっとも、私が何かを頼むたびに、彼の机の書類が増えていくのは少し気になった。
ある夜、リネットが部屋へ入ってきた。
「殿下、まだお休みにならないのですか?」
「もう少し」
机には帳簿が広がっている。
東街道の輸送記録と、倉庫の受け入れ予定だ。
どちらも、今日届いたばかりだった。
「ここ数日、ずっと遅くまでお仕事をされていますね」
「そうね」
「お身体を壊されては困ります」
「大丈夫よ」
「そう仰って、昨日も遅くまで起きていらっしゃいました」
よく見ている。
私は帳簿を閉じた。
「王都が飢えると私も困るもの」
リネットの手が止まった。
「……王都が、飢える?」
「西の道が使えなくなったら、そうなるかもしれないの」
「そのようなことが?」
「まだ分からないわ。だから調べているの」
リネットはしばらく黙っていた。
それから、私の机の端に置かれた冷めた茶を新しいものと取り替えた。
「でしたら、なおさらお休みください」
「どうして?」
「殿下がお倒れになっては、調べる方がいなくなってしまいます」
なるほど。
それは困る。
「分かったわ。今日はここまでにする」
「ありがとうございます」
リネットは満足そうに笑った。
私は帳簿を重ね、机の端へ寄せた。
魔族に命令されていた頃は、こんなふうに休むことを勧められた記憶がない。
もっとも、あの魔族に休んでほしいと言われても、何を企んでいるのかを考えてしまい、あまり嬉しくはなかっただろう。
試験輸送が始まったのは、それから数日後だった。
東街道沿いの地方倉庫から麦を積んだ荷車が出発し、途中の町で荷を引き継ぎながら王都へ向かう。
私は毎日、届けられる報告を確認した。
最初の荷車は予定より半日遅れた。
次の荷車は、途中で車輪の修理が必要になった。
思っていたより、麦を運ぶというのは面倒な仕事だった。
それでも、荷は進んでいる。
そして、最初の麦が王都へ届いた。
「到着いたしました」
報告に来た文官が、書類を差し出した。
東街道から運ばれた麦は、予定通り東側の官営倉庫へ収められたという。
「全部?」
「はい。途中で多少の遅れはございましたが、数量に不足はありません」
「そう」
私は受領の記録を確かめた。
出発した数量と、到着した数量が一致している。
それだけのことだった。
けれど、昨日まで紙の上にしかなかった輸送経路が、実際に使えることが分かった。
オズワルドも報告を受け、次の輸送を認めた。
河川輸送についても、増便できる時期と必要な費用が整理され、条件が合えば利用できる見通しが立った。
さらに、官の倉庫に残っていた麦の一部を、通常の取引を通じて市場へ回すことになった。
不足が深刻になる前に、流通する量を増やすためだ。
商会が抱えていた麦も、少しずつ市場へ出始めた。
価格がさらに上がるのを待つより、売れるうちに売った方がよいと判断したのかもしれない。
数日後、私は再び市場へ出かけた。
以前より荷車が増えている。
西からの荷だけではない。東街道を通ってきた商会の印も見えた。
麦の値段が元に戻ったわけではない。
それでも、店先から食べ物が消えるような状況にはなっていなかった。
倉庫の備蓄量も確認でき、別の輸送経路も動き始めた。
今すぐ西街道が止まっても、以前のように何もできずにいるわけではない。
私はパン屋の前で足を止めた。
「あっ、殿下!」
マルタが私に気づいた。
以前より、少し表情が明るい。
「マルタ、こんにちは。麦の値段はどう?」
「まだ高いですけど、これ以上は上がらずに済みそうです。東からも麦が届くようになりましたから」
「そう」
「それに、官の倉庫からも麦が出るって話でしょう? 商会の人たちも、少し落ち着いたみたいで」
私は頷いた。
数字の上でも、それは確認している。
マルタは私を見て、深く頭を下げた。
「殿下のおかげです。本当に、ありがとうございます」
私は返事に困った。
麦を運んだのは私ではない。
荷車を動かしたのは輸送業者で、倉庫を開けたのは役所の担当者だ。
オズワルドが許可を出さなければ、何一つ始まらなかっただろう。
私は、書類を読んで、いくつか提案しただけだった。
「……まだ、終わったわけではないわ」
そう答えると、マルタは笑った。
「ええ。でも、助かりました」
その言葉を、どう受け取ればよいのか分からなかった。
帰りの馬車で、リネットが嬉しそうに話しかけてきた。
「よかったですね、殿下」
「何が?」
「市場の方々が、喜んでいらっしゃいました」
「そうね」
「殿下のお仕事が、役に立ったのですね」
私は窓の外を見た。
市場では、今日もパンが売られている。
荷車が通り、商人が声を張り上げ、人々が買い物をしている。
昨日と同じような光景だった。
ただ、昨日より少しだけ、長く続きそうだった。
私が王女でいるためには、この国がなくなってもらっては困る。
そのためにしたことだ。
それ以上の理由はない。
それでも、マルタの笑った顔が、なぜか頭に残っていた。




