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偽りの王女は、王国を滅ぼしたくない  作者: 安威要


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第3話 王都は二十一日で飢える

『王都は二十一日で機能不全に陥る。』


 昨夜見つけた魔族の資料には、そう書かれていた。

 ただし、これは正しい数字なのだろうか。

 資料が作られたのは、私が王宮へ入り込むより前のことだ。少なくとも三か月以上は経過している。

 その間に王都の食糧事情が変わっている可能性は十分にある。

 良くなっていれば問題はない。悪くなっていれば、二十一日より早く食べ物がなくなるかもしれない。


 それはとても困る。

 せっかく安心して暮らすために王女を続けると決めたのに、食事が出なくなるのでは意味がない。


 私は机に資料を広げ、食糧供給に関する部分を読み直した。

 王都へ運ばれる麦の大半は西街道を通る。残りは東の街道と河川輸送だが、輸送量は少ない。

 さらに、王都の主要な穀物倉庫は数か所に集中している。

 魔族はそこを同時に攻撃する計画だった。

 街道を塞ぎ、倉庫を壊す。

 そうすれば、戦わずに王都を弱らせられる。


 なるほど。

 人間の国を滅ぼす方法としては、よく考えられている。

 問題は、それが今の王都でも通用するかどうかだった。


「殿下、おはようございます」

 リネットが入ってきた。

「おはよう。今日は街へ出るわ」

「はい。……はい?」

 水差しを置こうとした手が止まった。

「街へ?」

「市場を見たいの」

「市場、でございますか?」

「ええ」

 リネットは少し考えてから、窓の外を見た。

「先日の魔族騒ぎで、まだ警備が厳しくなっておりますが」

「護衛をつければいいでしょう」

「それは、そうなのですが……」

「何か問題が?」

「いえ。殿下が市場をご覧になりたいと仰るのが、少々珍しくて」

 また、以前のエルシアとの違いらしい。

「勉強よ」

「市場のお勉強ですか?」

「そう」

「……承知いたしました。ベルンハルト様にご相談してまいります」

 リネットは丁寧に頭を下げた。

 扉を出る直前、もう一度こちらを振り返る。

「ちなみに、何のお勉強でしょう?」

「麦の値段」

「……麦、でございますか」

 妙な沈黙があった。

 王女が麦の値段を知りたがるのは、そんなに珍しいことなのだろうか。


 結局、ガルドが許可するまでに少し時間がかかった。

「殿下。王宮内に魔族が潜伏していたことが分かったばかりですぞ」

「知っているわ」

「まだ魔族の残党の捜索も終わっておりません」

「そうね」

「その状況で、市場へお出かけになりたいと?」

「ええ」

 ガルドは私を見た。

 私はガルドを見た。

 しばらくして、彼が先に息を吐いた。

「……お引き止めしても、お考えは変わりませんかな」

「ええ、そうね」

「昔から、一度言い出されると頑固なところがおありでした」


 おお、かつてのエルシアよ、それはとても助かる。

 どうやら今回の行動は、エルシアの性格から大きく外れてはいないらしい。


「ただし、護衛は増やします。市場でも私のそばを離れませんよう」

「分かったわ」

「それと、できれば午前中にはお戻りください」

「ええ」

 ガルドは頷いたが、まだ何か言いたそうだった。

「何?」

「いえ。殿下が市場をご覧になりたいとは、随分とお変わりになったものだと思いまして」

「人は変わるものでしょう」

「……そうですな」

 ガルドは笑った。

 ただ、その目は少しも笑っていないように見えた。


 王宮を出たのは、それから間もなくのことだった。

 馬車にはリネットが同乗し、ガルドは騎乗して護衛についた。

 王都の街並みは、窓越しなら何度か見ている。

 しかし、市場を歩くのは初めてだった。


 馬車を降りると、最初にパンの匂いがした。

 続いて、馬の汗と麦袋の埃が混じった匂い。

 石畳の上を荷車が通り、車輪ががたがたと音を立てている。

 商人の呼び声があちこちから聞こえ、買い物客が店先で値段を交渉していた。

 子供が二人、荷車の間を走り抜けていく。

 すぐ後ろから母親らしい女が怒鳴っていた。


 随分と騒がしい場所だった。

 資料には、王都の市場の位置も、主要な商会の名前も、倉庫の数も書かれている。

 けれど、パンの匂いまでは書かれていなかった。


「殿下、足元にお気をつけください」

 リネットが小さな段差を指さした。

「ありがとう」

「それにしても、今日は随分と賑わっていますね」

「いつもこうなの?」

「ええ。休日の前などは、もっと人が増えますよ」

 なるほど。

 それだけの人間が、毎日何かを食べているわけだ。

 食糧がなくなれば、全員が困ることになる。


 私たちの姿に気づいた商人が、慌てて頭を下げた。

 周囲の者もそれに続く。

 あっという間に、歩く先に人のいない空間ができてしまった。

 これでは普段の市場の様子が分からない。

「ガルド」

「はい」

「皆に、いつも通り商売を続けるよう伝えて」

「承知いたしました」

 ガルドが声をかけると、商人たちは恐る恐る仕事へ戻った。

 ただ、こちらを見る目はなかなか元に戻らなかった。


 最初に立ち寄ったのは、パンを売る店だった。

 店先には丸いパンが籠いっぱいに積まれている。焼き色のついた表面から、まだ温かい匂いが立っていた。

「いらっしゃ……これは、殿下!」

 店の女が慌てて頭を下げた。

 どうやら、この服装と護衛の人数だけで、私が王女だと分かるらしい。

 なるほど。王女というのは、何もしなくても目立つものなのだ。

 逃げるときは、やはり服から変える必要がある。

「そのままでいいわ。少し聞きたいことがあるの」

「は、はい。何なりと」

「このパンはいくら?」

 女は一瞬、ガルドの顔を見た。

 それから、おずおずと答える。

「銅貨八枚でございます」

「前からその値段?」

「いえ。先月までは六枚でした」

「なぜ上がったの?」

「麦粉が高くなりまして。仕入れ値が上がると、うちも値段を変えないわけにはいかないんです」

 女は申し訳なさそうに言った。

 私に謝る必要はないのだが。

「麦が足りないの?」

「まだ買えますよ。ただ、最近は入ってくる荷が少なくて」

「どこから届くの?」

「ほとんど西の街道です。あちらの商人さんが運んでくるので」

 資料の内容と一致している。

「ほかの道からは?」

「東からも来ますけど、量は少ないですね。川の荷もありますが、うちみたいな小さな店にはなかなか回ってきません」

「そう」

 私はパンを見た。

 今は籠に山ほど積まれている。

 けれど、それがいつまで続くかは分からない。


「ところで、あなたの名前は?」

「えっ?」

「名前よ」

「マ、マルタと申します」

「マルタね。覚えたわ」

 女は目を丸くした。

 名前を聞いただけなのに、随分と驚くらしい。

 私は必要な情報を覚えただけだ。もう一度話を聞くことになるかもしれない。

「ありがとう。パンを一ついただける?」

「もちろんでございます! お代など、とんでもない」

「売り物でしょう」

「ですが、殿下にお金をいただくわけには」

 困った。

 パンの値段を調べに来たのに、無料で渡されては商売の様子が分からない。

「リネット」

「はい。こちらでお支払いいたします」

 リネットが小銭の入った袋を取り出した。

 私は少し感心した。

 王女の財布は、侍女が持っているらしい。

 マルタは何度も頭を下げながらパンを包んでくれた。

 私は礼を言って店を離れた。


「殿下、パンを召し上がるのでしたら、お戻りになってからの方が」

「今は食べないわ」

「では、どうしてお買いになったのですか?」

「値段を確かめたかったの」

「……値段なら、聞くだけでよかったのでは?」

 確かに。

 私は包みを見下ろした。

 余計な出費だったかもしれない。


 次に向かったのは、荷車が集まる通りだった。

 市場の裏手には大きな倉庫が並び、麦袋を積んだ馬車が次々と出入りしている。

 私は通りの端に立ち、その様子を見た。

 荷車の側面には、それぞれ商会の印が描かれている。

 しかし、よく見ると同じ印の馬車が多かった。

 資料に載っていた商会の一つだ。

「リネット。あの印は?」

「大きな穀物商会のものですね。王都でも有名です」

「あちらも同じね」

「そうですね」

「その隣も」

「……ええ」

 五台続けて、同じ印だった。


 倉庫の前では、荷受けの男が札を数えていた。

 私はガルドに頼んで、その男から話を聞くことにした。

 男は最初こそ緊張していたが、荷車について尋ねると、少しずつ口が滑らかになった。

「いつもなら、朝のうちにもっと来るんですがね。西からの荷が遅れてまして」

「今日は何台来たの?」

「今のところ七台です。普段なら、この時間には十台以上は来ています」

「ほかの街道からは?」

「東から二台。川の荷は、今日はまだです」

 私は頭の中で数を並べた。

 西から七台。東から二台。

 荷が減っているのは、どうやら本当らしい。

「倉庫には余裕があるの?」

「場所ならありますよ。ほら、あちらの搬入口も空いているでしょう」

 男が指した先には、荷車の止まっていない広い入口があった。

「麦は?」

「それは商会ごとに違います。うちに入る荷は、入った端から引き取られることも多いですからね」

「引き取る?」

「最近は、まとめて買い付ける商会が増えまして。値が上がる前に確保しておきたいんでしょう」

 男はそこで口を閉じた。

 余計なことを言ったと思ったのかもしれない。

 私はそれ以上尋ねなかった。


 倉庫の外へ戻ると、ガルドが声をかけてきた。

「殿下。何か、お気づきのことでも?」

「麦の荷車が少ないの」

「そのようですな」

「以前から?」

「申し訳ありません。私には、そこまでは」

「そう」

 ガルドは少し首を傾けた。

「しかし、殿下が荷車の数をお気になさるとは」

「数えるくらいはできるわ」

「それは存じております」

 なぜか困った顔をされた。

 人間は、数を数えられるだけでも驚くことがあるらしい。

 どうやら王女は、荷車を数えるだけで周囲を困らせるらしい。


 その後も、いくつかの店を回った。

 麦を売る店では、仕入れ値が少しずつ上がっていると聞いた。

 別の商人は、大きな商会が早いうちから麦を押さえてしまうので、以前ほど自由に買えないとこぼしていた。

 荷車の数が少ない。

 値段が上がっている。

 買い付けが一部の商会に集中している。

 それぞれは小さな変化でも、同じ方向を向いていた。


 私は資料の内容を思い出した。

 西街道を遮断すれば、王都の食糧供給は大きく減る。

 主要倉庫を破壊すれば、備蓄も失われる。

 その結果、二十一日以内に都市機能が深刻な機能不全に陥る。


 けれど、資料が作られた頃より、今の王都は麦を運ぶ力が弱くなっているようだった。

 しかも、届いた麦がすぐ市場へ出るとは限らない。

 大きな商会が抱え込めば、倉庫に麦があっても、店先には並ばなくなる。

 私は市場の方を振り返った。


 マルタの店には、まだ客が並んでいた。

 彼女は焼きたてのパンを紙に包み、子供を連れた女へ手渡している。

 子供が嬉しそうにパンを抱えた。

 母親らしい女が代金を渡し、二人は人混みの中へ消えていった。


 もし麦が届かなくなったら、あの店はどうなるのだろう。

 パンは焼けなくなる。

 マルタは商売ができなくなる。

 あの子供も、パンを買えなくなる。

 それだけのことだ。

 知らない人間が困るのは、別に珍しい話ではない。


 ただ、パンの匂いがなくなった市場を想像してみると、少し静かすぎる気がした。


「殿下、そろそろお戻りになりませんか」

 リネットが声をかけた。

 いつの間にか、約束した時刻が近づいていた。

「そうね」

 私は頷いた。

 帰ったら、もう一度資料を確かめる必要がある。


 王宮へ戻る馬車の中で、私は市場で見聞きしたことを整理していた。

 西街道への依存は、資料の通り。

 麦の値段は上がり、荷車の到着数は減っている。

 倉庫にどれだけの備蓄があるかは、まだ分からない。

 しかも、買い付けが集中している以上、倉庫の中身がそのまま市民の食糧になるとも限らなかった。


 魔族の計算では二十一日以内。

 だが、その計算に使われた食糧供給量は、すでに変わっている。

 西街道が完全に止まれば、今よりさらに麦は減る。

 人々が食糧不足を恐れて買い始めれば、店頭から消えるのはもっと早いだろう。

 現状では、正確に何日持つか分からない。

 ただ、二十一日という数字を頼りにしてよい状況ではなかった。


 そもそも、魔族の計画は王国を壊すためのものだ。

 壊しやすい場所が、最初から分かっている。

 それなら、そこを直せばいいのではないだろうか。


 西街道が止まるなら、別の道から運べばいい。

 倉庫が狙われるなら、一か所に集めなければいい。

 商会が麦を抱え込むなら、どこに何があるのか確かめればいい。


 問題は、私にはそれをする権限も、やり方も分からないことだった。

 王女ではある。

 しかし、王女が直接倉庫を動かせるとは思えない。

 少なくとも、リネットに頼んで済む話ではなさそうだった。


 王宮に着くと、ガルドが馬車の扉を開けた。

「殿下。本日のご視察はいかがでしたかな」

「勉強になったわ」

「それは何よりです」

 ガルドは穏やかに笑った。

「ですが、次はもう少し早くご相談ください。護衛の手配にも時間がかかりますので」

「分かったわ」

「それと、殿下」

「何?」

「市場の商人に、随分と細かなことをお尋ねでしたな」

「そうね」

「何か、お調べになっているのですか?」

 私は少し考えた。

 魔族の侵略計画を調べている、とは言えない。

「王都の暮らしについてよ」

「……左様ですか」

 ガルドはそれ以上聞かなかった。

 ただ、馬車を降りる私を、いつもより少し長く見送っていた。


 自室へ戻ると、リネットが買ってきたパンを机に置いた。

「こちら、どうなさいます?」

「食べるわ」

「夕食もございますが」

「少しだけ」

 包みを開くと、朝ほどではないが、まだ麦の香りが残っていた。

 一口食べる。

 王宮のパンより硬く、少し塩気が強い。

 けれど、悪くない。

「おいしいですか?」

「ええ」

「それなら、よかったです」

 リネットは笑った。

 私はパンをもう一口食べてから、窓の外を見た。


 あの市場は、今も賑わっているのだろう。

 荷車が行き交い、商人が声を張り上げ、マルタがパンを売っている。

 今日覚えたばかりの名前だった。

 次に会うときも、覚えていると思う。


 私は机の引き出しに視線を移した。

 中には、王国を滅ぼすための資料がある。

 そこに書かれた数字は、私が思っていたよりずっと厄介なものだった。

 王国が滅びれば、王宮もなくなる。

 王宮がなくなれば、私の部屋も食事もなくなる。

 それは困る。

 けれど、今ならまだ間に合うかもしれない。

 少なくとも、麦がなくなる前に何かを始めることはできるはずだ。


 私は残りのパンを皿に戻した。

「リネット」

「はい、殿下」

「宰相に会うわ」

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