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偽りの王女は、王国を滅ぼしたくない  作者: 安威要


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第2話 ここを出る必要、ある?

 翌朝、目を覚まして最初に見たのは、枕元に置いた黒い石だった。

夜の間に命令が届くこともあるかと思い、手の届く場所へ置いておいた。

溝をなぞると、小さな光が灯る。

それだけだった。

私は石を布に包み、衣装棚へ戻した。

命令が来ないのなら、こちらで次にすることを決めなければならない。


 まず考えたのは、逃げることだった。

王宮から出るだけなら、難しくはない。

私は人間の姿を写し取れる。

下働きの娘にでもなって裏門へ向かえば、第二王女が出ていったとは誰も思わないだろう。


 ただし、服は変わらない。

王女の寝間着のまま使用人の顔になっても、怪しまれるだけだ。

着替えを用意し、見張りの交代を確かめ、人の行き来が多い時間を選ぶ必要がある。

昨夜から警備は増えている。騒ぎが収まるまで待つ方が安全だろう。

 私は窓際に立った。


 中庭を横切る兵士が二人。回廊の入口に一人。

いつもより多いが、立ち去る方法がなくなったわけではない。

必要なのは、服と、金と、出るまでの手順だ。

金については少々困った。

部屋には銀の燭台も宝石を飾った箱もある。

持っていけば当座の食事くらいは買えるだろうが、王女の持ち物が消えれば盗難騒ぎになる。

追手に自分の行き先を知らせるのは賢くない。

小さな硬貨が何枚かあればよい。


 しかし私は、ここで自分の財布を持ったことがなかった。

欲しいものは侍女に頼めば届く。代金を払うところを見たこともない。

 王女というのはとても便利な身分らしい。逃げるときにはとても不便だが。


「殿下、起きていらっしゃいますか」

 扉の向こうからリネットの声がした。

「ええ。起きているわ。」

 私の答えを合図に、彼女は湯を入れた水差しと清潔な布を持って入ってきた。

私の顔を見るなり、少し眉を上げる。

「今朝はお早いですね」

普段は全く起きないのに、という言外の指摘が込められている気がする、以前の王女は朝が弱かったのかもしれない。

「考え事をしていたの」

「昨夜はお眠りになれませんでした?」

「眠ったわ」

「では、考え事は朝に持ち越されたのですね」

 どうやら、この侍女にはごまかしが利かない。


 リネットがカーテンを開け、窓辺の椅子へ服を並べていく。

淡い色の衣装が三着。

どれも私一人では正しく着られる自信がない。

「今日は、どちらになさいます?」

起床の件は無事に終わったらしい、が、次は着るものを選ぶのだ。

「動きやすいもの」

「……お散歩ですか?」

 「いいえ」 

できれば逃げたいんですよ。とはさすがに言えない。

「では、こちらにしましょう。昨日のものより袖が軽いですから」

 私の答えを聞いても、リネットは深く問いたださなかった。

 逃げるなら、彼女に服を選ばせている場合ではない。

 そう思ったが、今さら使用人の服を貸してくれとも言えない。

 私はいつも通り両腕を上げ、着せてもらった。


 身支度を済ませてから、もう一度、逃げたあとのことを考えた。

王都には人が多い。

顔を変えれば紛れ込める。

町を出る必要さえないかもしれない。

宿を取る。食事を買う。金が尽きたら働く。

働くなら、何ができるだろう。

人の姿を真似ることはできる。

 だが誰かの姿で仕事を始めても、その人の経験まで借りられるわけではない。

帳簿をつけろと言われれば、書き方を知らなくてはならないし、料理を任されれば火加減を覚える必要がある。

掃除ならできそうだ。リネットがしているのを毎日見ている。

もっとも、見ているだけで雇ってもらえるかどうかは別の話だった。

 

 身元を尋ねられたら、どう答える?

名前はない。

生まれた村も、人間の親もいない。

適当に作ればいい?


 だが、その村のことを詳しく聞かれたら困る。ガルドに昔話をされたときと同じだ。

 結局、逃げても誰かのふりを続けることになる。

 それなら、よく知らない誰かになるより、三か月続けてきたエルシアの方が簡単ではないだろうか。

 ただし、新たな魔族がやってきたら話は変わる。

 私はあの連中に捕まえられ、使うために王宮へ送られた。

戻ったところで、新しい役目を与えられるだけだろう。

失敗した道具だと判断されて処分される可能性も当然ある。

 人間の町は私を知らない。魔族の側は私を道具として知っている。

 どちらも、あまり魅力的な行き先ではなかった。


 考えがまとまらないまま、お茶の時間になった。

 リネットが小さな皿を二つ運んできた。一方には薄く焼いた丸い菓子、もう一方には砕いた胡桃を混ぜ込んだ菓子が載っている。

「どちらを召し上がりますか?」

「こちら」  私は胡桃の方を指した。

 リネットの手が止まった。

「そちらですか?」

「ええ」

「珍しいですね」

「何が?」

「殿下は以前、胡桃の菓子をあまりお好みではありませんでしたから」

 指を引っ込めそうになった。


 また、知らないエルシアの話だ。

「……そうだったかしら」

「ええ。少し苦みが残ると仰って。厨房では、殿下にはお出ししないようにしていたのですが」

「今日はあるのね」

「私が好きなので、つい一緒に持ってきてしまいました」

 リネットは申し訳なさそうに皿を下げようとした。

「待って。それをいただくわ」

「よろしいのですか?」

「嫌いかどうか、食べてから決める」

 リネットは一度まばたきをして、皿を戻した。

「では、お茶を少し濃くいたしますね」

 菓子を口に運ぶ。

 表面はさくりと割れ、中は少し柔らかい。

胡桃の香りのあとに、確かに苦みが残った。

でも、嫌な味ではない。甘さがいつまでも口に残らないのもよかった。

 もう一口食べる。

「いかがですか?」

「おいしいわ」

「まあ」

 リネットは、私が何か難しい仕事をやり遂げたかのように笑った。

「お好みが変わられたのですね」

「そうみたいね」

「では、次からもお持ちしましょうか」

「ええ、お願いするわ」

 返事をしてから、もう一つ食べたくなった。

けれど皿には一つしかない。

 リネットが自分の皿を見て、少し考えた。

「私の分をお持ちしましょうか」

「あなたのでしょう」

「殿下がお望みなら」

「いらないわ。あなたが食べて」

 彼女はなぜか嬉しそうに頭を下げた。

 自分の菓子を自分で食べられるのだから、喜ぶのは当然かもしれない。


 リネットが皿を片づけたあとも、私はしばらく椅子に座っていた。

 エルシアは胡桃の菓子が嫌いだった。私は好きだった。

 顔も声も同じなのに、舌まで同じになるわけではないらしい。

 まあ、私は何でも食べる。嫌いなものと言えば毒くらいだ。

 それは今さら不思議なことでもない。

 私が写しているのは、目に見える部分だけだ。

 ただ、次からあの菓子が出てくるというのは、悪くなかった。


 ふと部屋を見渡した。

 窓際の机には読みかけの本がある。

衣装棚には今朝選ばなかった服が掛かり、ベッドは私が起きたあと、皺一つなく整えられていた。

 廊下の外には護衛がいる。

扉を開ければ誰かが用件を尋ね、食事の時刻になれば食事が出る。

 この部屋へ来てから、眠る場所を探したことはない。

 今朝も湯が運ばれ、服を選んでもらい、茶と菓子が出た。

私が何かをしたからではなく、ここでは毎日そうなる。

 もちろん、本当は全部王女エルシアのものだ。

 部屋も、服も、護衛も、私に向けられる「殿下」という言葉も。

 私自身のものは、どこにもない。

 それでも、この三か月、ここで眠ったのは私だった。

 あの菓子をおいしいと思ったのも私だ。


 ここを出る必要、ある?


逃げる道筋は考えた。金と仕事はまだ足りない。

それより先の暮らしは、まるで決まっていない。

一方、ここには部屋がある。

鍵のかかる扉があり、温かい食事があり、明日の朝にはリネットが来る。

 命令が届かなくなったからといって、それらまで消えたわけではない。  

私は窓から中庭を見下ろした。兵士が交代し、門の脇へ一人残った。

 別の顔で出ていくことは、いつでも考えられる。

 なら、今すぐ出なくてもいい。

 私は机へ戻り、開いたままだった詩集を閉じた。

 少なくとも、今日は王女を続けよう。

 明日も問題がなければ、その次の日も。

 いつまで続けるかは、私が決めればいい。


 もっとも、王女の暮らしを続けるなら、確かめておくことがあった。

 私は机の奥へ手を伸ばし、引き出しの下に隠していた薄い書類の束を取り出した。

 魔族から渡された資料だった。

 表紙には王国の地図が描かれている。城から延びる街道、川沿いの町、国境の砦。余白には細かい文字がびっしり並んでいた。

 人間が作った案内図ではない。

 どこを攻めれば兵が遅れるか。誰に金を渡せば門が開くか。

どの倉庫を壊せば、王都への食糧が止まるか。

 王国を滅ぼすために調べた資料だ。

 これまで私は、指定された部分しか読んでいなかった。

 命令に必要のない頁は、見なくてよいと言われていたからだ。

 今日は、めくっても誰にも叱られない。

 そう思って最初から開いてみると、実に細かい。

 貴族の名、役所の担当、倉庫の位置まで書かれている。

 人間たちが自分の国を管理するより、魔族の方が熱心なのではないだろうか。  

 妙なところで感心しながら頁をめくると、一つの見出しが目に留まった。


『王都食糧供給網』


街道の図に、赤い線が引かれている。

『西街道を遮断』 『主要倉庫を破壊』  その下には、計算の結果らしい数字が並んでいた。

『二十一日以内に都市機能は深刻な機能不全に陥る』


「……二十一日?」  指でその数字をなぞった。

 二十一日といえば、三週間だ。

 あの魔族は、王国の侵略が始まれば私も次の役目に移ると言っていた。

王女として暮らすのは、そのための準備にすぎない、と。

 だから、ここでの暮らしがいつか終わること自体は知っていた。

 けれど私には、その次の役目を引き受ける理由がもうない。

 この資料の通りに事が運べば、王宮に食べ物が届かなくなる。

 お茶も、新たな好物となった胡桃の菓子も、たぶんなくなる。

 警備が増えたところで、食事は作れない。

 せっかくここに残ろうと決めたのに、残る場所そのものがなくなってしまう。


「それは、困るわね」


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