第1話 命令が来ない
王女になって三か月目の朝、私を王女にした魔族が死んだ。
窓の外では、いつもと同じように小鳥が鳴いていた。違うのは廊下の方だ。早足の靴音が何度も通り過ぎ、時折、重い扉の開閉する音が混じる。朝の王宮はもう少し静かなはずだった。
「昨夜、王宮の地下で魔族が討伐されたそうです」
私の髪を梳きながら、リネットが言った。
銀の櫛が頭の後ろを滑る。鏡の中には、栗色の髪をした若い女が座っている。
「そう」
その女が私と同じ声で答えた。
驚かないようにしたつもりだったが、リネットの手が止まった。
「殿下?」
「何?」
「……ご気分が優れませんか」
「いいえ。どうして?」
「少し、お顔が強張っておいでです」
鏡を見る。
確かに、口元がわずかに硬かった。指で直すわけにもいかないので、力を抜く。今度はうまくいったらしい。リネットがほっと息をついた。
私はエルシア・アルヴェルト。この国の第二王女ということになっている。
本当は違う。私には名前がないし、生まれたときからこの顔だったわけでもない。
死んだ魔族は、それを知っている数少ない相手だった。
「地下にいたなんて、恐ろしいことです。お部屋のすぐ下かもしれないんですよ」
「そうね」
「近衛の方々が見つけてくださって、本当によかったです」
よくない。
いや、人間にとってはよいことなのだろう。城の地下に魔族が住んでいるのは、たぶん好ましくない。
ただ、死んだのが私に命令を出す役目の男だった。
次の命令を、誰が出すのだろう。
「まだ詳しいことは分からないそうですが、今朝から警備が厳しくなるようです」
「あなたも気をつけて」
口にしてから、少し迷った。王女は侍女にこういうことを言うのだろうか。
リネットは鏡越しに目を丸くしたあと、笑った。
「ありがとうございます。ですが、まずは殿下がじっとしてくださらないと」
彼女が髪をまとめようと、私の背中へ回る。
私は椅子ごと、ほんの少し横にずれた。
「殿下」
「じっとしているわ」
「肩が逃げています」
「肩は逃げないでしょう」
「逃げております。三度目です」
数えていたのか。
私は背筋を伸ばし、櫛が通り終わるまで動かないことにした。
背後から手が近づくのは、まだ得意ではない。
以前なら、捕まる前に姿を変えて逃げるところだ。今はそうもいかない。侍女の前で別人の顔になってしまっては、髪型どころの騒ぎではなくなる。
「痛くはありませんか」
「大丈夫よ」
「なら結構です。今日は少しきつめに留めますから」
「なぜ?」
「殿下が何度も逃げられたので」
それは、どうも私が悪いらしい。
身支度が終わる頃、扉を叩く音がした。
リネットが応対し、老騎士を部屋へ通す。
「ガルド・ベルンハルト、参上いたしました」
ガルドは私の顔を見る前に、深く頭を下げた。
白いものの混じった髪、磨かれた胸当て、無駄のない動き。王女付きの護衛を長く務めている男だ。
私にとっては、宮中で最も扱いに困る人間でもある。
「昨夜の件について、ご報告に上がりました」
「聞いているわ。地下で魔族が見つかったのでしょう?」
「はい。近衛が捜索中に発見し、抵抗を受けたため、その場で討伐いたしました。現在、ほかに潜伏者がいないか調べております」
「けが人は?」
リネットがわずかにこちらを見た。
聞くべきことを探して、最初に浮かんだのがそれだった。訓練では、王族がこういう知らせを受けたら臣下を気遣うように、と教えられていた。
「負傷した者はおりますが、命に別状はございません」
「そう。よかったわ」
ガルドが顔を上げた。
「殿下も、さぞ驚かれたことでしょう」
「ええ」
「昔は魔族という言葉を耳にしただけで、随分と怖がっておいででしたからな」
・・・。
まずい。
「覚えておいでですか。まだお小さかった頃のことです」
当然のことだが、覚えていない。
そんな頃、私はこの顔をしていなかった。
ガルドは懐かしそうに目を細めている。
質問というより、何気ない思い出話らしい。それが一番困る。
私はドッペルゲンガーだ。
他人の顔も、声も、身体つきも真似られる。しばらく観察すれば歩き方も癖も写せるし、教え込まれれば筆跡まで似せられる。
けれど、その人間が昔何をしたかは分からない。
本来なら、もう分かるようになっているはずだった。
まず私がエルシアの姿で王宮へ入る。誰にも気づかれずに過ごせると確かめたら、本物のエルシアを運んでくる。そして私が、生きている彼女の脳を喰らう。
そうすれば記憶が手に入る。
幼い頃に誰を怖がったか、ガルドと何を話したか、好きだった食べ物まで、その場にいたかのように知ることができる。
ただし、死んでからでは遅い。
死後の脳を食べても、私には記憶を取り出せない。だから本物の王女は、最後まで生かしておく手順だった。
その手順は、まだ実行されていない。
エルシアが今どこにいるのか、生きているのかさえ、私には知らされていなかった。
「……昔のことだから、よく覚えていないわ」
ガルドはすぐには答えなかった。
目元の皺が動き、私の顔を少しだけ長く見る。
「左様ですか。私など、つい昨日のことのように思い出すのですが」
「あなたの方が、記憶がいいのね」
「年寄りには、昔話くらいしか取り柄がございませんので」
そう言って笑った。
私も笑う。鏡の前で何百回も練習した、エルシアの笑い方だった。
ガルドはそれ以上、昔の話をしなかった。
そのことに安心しかけたところで、彼はまた頭を下げた。
「本日は、必要がない限りお部屋の外へ出られませんよう」
「分かったわ」
「兵の配置も増やします。何かあれば、すぐにお呼びください」
私を守るための兵が増える。
ありがたい話なのか、逃げ道が減る話なのか、まだ判断できなかった。
ガルドが出ていくと、リネットが扉の掛け金を確かめた。
「ベルンハルト様も、ご心配なのですね」
「いつもああなの?」
「私がお仕えするようになってから、ずっとあの調子でございますよ」
「……そう」
ずっと。
この城では、昔のことを話す人間が多い。
私には三か月より前のエルシアの記憶がない。
だから人々が親しげに昔を持ち出すたび、知らない道を歩かされるような気分になる。踏み外したら、何が待っているのだろう。
昼になっても、誰からも呼び出しはなかった。
食事は部屋へ運ばれた。
皿の上の白いパンは温かく、湯気の立つスープには細かく刻まれた野菜が浮いていた。私はいつも通り食べた。食べない理由がない。
「お口に合いませんか?」
皿を下げに来たリネットが尋ねた。
「全部食べたけれど」
「ずっと考え事をなさっていたので」
「そう見えた?」
「パンをちぎったまま、しばらくお止まりでした」
ちぎったパンは、きちんと口へ運んだつもりだった。
よく見ている。
「昨夜のことでしたら、どうかお気になさらないでください。近衛の皆様がおいでです」
「ええ。頼もしいわね」
実際、近衛騎士は頼もしい。
隠れていた魔族を見つけて殺してしまうくらいなのだから。
もっとも、それが今は私の問題になっていた。
午後は本を開いて過ごした。
王女にふさわしい書物として渡された、古い詩集だった。何度も同じ頁を読んだが、言葉が頭に残らない。
魔族側からは、毎夜決まった時刻に連絡が届く。
昨夜までは、その通りに動くだけでよかった。
誰と会い、何を聞き、どの書類に目を通すか。
余計なことはしない。聞かれたことだけ答える。分からない話になったら、体調か気分を理由に切り上げる。
面倒な指示もあったが、考えなくてよい部分は多かった。
その指示を出す男は、私を捕まえた相手でもある。
初めて王女の顔に変わったとき、顎の角度が違うと言って何度もやり直させた。声が少し低ければやり直し、歩幅が大きければやり直し。私が眠っていても、起こせばまた使えると考えていた。
好きだったことはない。
死んだと聞いても、悲しくはなかった。
ただ、仕事の続きを聞こうにも、相手がいない。
窓から差し込む光が傾いていった。
リネットが燭台を持ってくる頃には、廊下の騒ぎも少し落ち着いていた。
「今夜は、いつもより早くお休みになられますか」
「まだ少し起きているわ」
「夜更かしはなさらないでくださいね」
「善処するわ」
「そのお返事では、少々心配です」
リネットは苦笑して、部屋を出ていった。
扉の向こうで、控えめな靴音が遠ざかる。
寝室に一人になると、私は衣装棚を開いた。
畳まれた布の下へ手を入れ、薄い包みを取り出す。
中には、指先ほどの黒い石があった。
表面に細い溝が刻まれている。魔族から渡された、連絡用の魔道具だ。
石を掌に載せ、溝を親指でなぞる。
端に小さな光が灯った。少なくとも、使えなくなっている様子はない。
あとは待つだけだった。
窓の外が暗くなった。
廊下の足音が減り、遠くで時を告げる鐘が鳴った。
いつもの時刻になった。
石は黙っていた。
もう少し待つ。
以前にも命令が短い夜はあった。『明日は予定通り』。たったそれだけでも、受け取れば次にすることが分かった。
今夜は、その一言もない。
私は石を裏返し、光を確かめた。
まだ灯っている。
もしかすると、別の魔族から連絡が来るのかもしれない。
あの男の代わりが決まるまで、何もするなという意味かもしれない。
けれど、何もするなという命令も届いていない。
ベッドの端に腰を下ろした。
リネットが整えた寝具に、手の跡がつく。柔らかい布はすぐ元に戻った。
王女の寝室は静かだった。
扉の外には護衛がいる。窓は閉じられていて、食事も水も足りている。いつもなら、もう眠る時間だ。
それなのに、石をしまってよいのか分からない。
「……死んだの?」
返事はなかった。
死んだのなら、もう私へ命令を出すことはできない。
では、その先は。
石をもう一度見た。
灯っている小さな光は、何も教えてくれなかった。
「じゃあ私、もう命令を聞かなくていいの?」




